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2005年08月30日

翔ぶが如く(4)

「半島を出よ」に割り込まれていたために頓挫していた「翔ぶが如く」の続きを読み始めました。4巻は「佐賀ノ乱」~「台湾派兵(とでも言うんでしょうか)」まで描かれています。両方とも馴染みが薄く、歴史の授業では聞いたことがなかったものだと思います。といっても日本史は選択したことが無かったので、小中の歴史で習ったかもしれませんが全く記憶に無いですね…。

この4巻はあまり記憶に残る部分が無かったのですが、メモ程度に残していた部分を何点か。…と思って読み返していたらありました。この巻では「島津斉彬」に関してとても惹かれたんですよ。調べてみようと思っていたのを思い出し、いつもの如くWiki先生に訊いてみると…期待していたものとは違った情報が得られました!「スローダンス」で先々週?くらいに重要なアイテムになっていた「薩摩切子」です。

薩摩切子(さつまきりこ)は、薩摩藩が幕末から明治初頭にかけて生産した、ガラス・ガラス細工。薩摩ガラス。

江戸の職人を招くなどして、島津斉興によって始められ、島津斉彬が集成館事業として拡大。

島津斉彬死後の事業縮小や薩英戦争での被害を受けるほどして、途絶えた。 その為、現存するものは少なく、骨董として高価で取引される。

現在販売されているものは、1985年(昭和60)年代前後に復元されたもの。

江戸切子との違い・特徴は、厚い色被せの層とカットグラス技法(切子)による、ぼかし。この厚い色被せの層のために、カット工程においてガラスを通してグラインダーを目視確認できず、目視せずともカットできる高度な技能を要する。

知らないところでいろいろと繋がっているものですねぇ(Wikiに感謝)。こうゆうときはいつも「ぼく地球」の「同調連鎖」という言葉を思い出してしまいます。最近では「Stand Alone Complex」と言った方がいいかもしれませんが、ちょっと冷たい感じがするのでこれは微妙にしておきます。

「島津斉彬」に関しては専門のサイトをいろいろと回ってみようと思います。

あとはところどころに出てくる、後の昭和軍閥の体質となる「統帥権」に関する記述です。

ただし、各県の士族からみれば、大久保利通といえども、
--かれもまた一人の鹿児島県士族にすぎないではないか。
という胎があった。大久保はそれをよく知っていた。このため、しきりに天朝という存在を、大久保はもちだした。佐賀の反徒は天朝に刃向かう者であり、政府軍は天朝の忠勇なる兵であるという気分を作りだす以外に、大久保の統帥が可能ではない。この大久保の統帥のやり方を後年、山県有朋が継承し、やがてその統帥の政治哲学が病的なものになって昭和軍閥にひきつがれる。P74
ただ明治憲法において奇妙な一項が入った。天皇が陸海軍を統帥するというもので、これによって成立した統帥権が、昭和史を暗澹たるものにするのだが、西郷従道の場合、統帥権をいう言葉はなかったにせよ、その発動ということにおいては酷似している。P300
この種の奇術的な軍隊使用のやりかたは、のちに体質的なものとして日本国家にあらわれる。明治期の二十年代以後では立憲国家の運営に比較的忠実だったが、昭和期に入って遺伝的症状が露骨にあらわれた。陸軍参謀本部は統帥権という奇妙なものを常時「勅命」として保有し、軍隊使用は内閣と相談せずにできるよいう妄断をもってたとえば満州事変をおこし、日華事変をおこし、かたわらノモンハン事変をおこしてそのつど内閣に事後承認させ、ついには太平洋戦争をおこす道をひらいて国家を敗亡させた。大久保と西郷従道、それに大隈重信の三人が、三人きりで合作したこの官製倭寇は、それらの先例をひらいたものであろう。P320~P321

気にとめていただけでもこれだけ繰り返されています。きっとこれ以外にも言及があることでしょう。そしてこの巻以降でもあらわれてくることでしょう。日本人はこの手の「錦の御旗」のような権威に屈しやすいように感じます。そこにどうにもならない「権威」があり、従わざるを得ないような気分になる精神構造があるのかもしれません。「出る杭は打たれる」や「長いものには巻かれろ」といった諺に、平素ではそれと知られないように日本人気質を生むべき源流が流れているのかもしれません。

といって、日本人に歴史上の人物で誰が好きかという質問に対しては「織田信長」や「羽柴秀吉」、「坂本竜馬」といった答えが返ってくるのは面白い傾向だと思います。これは平均的日本人からは乖離している特異な日本人であったと言わざるを得ないでしょうし、こういった人たちに対する憧れがある(即ち自分とはまったく違う)ということを暗に示しているものだと思います。

最後に西郷に関して。

西郷が庄内藩士に語った言葉に、
「才芸のある人間を長官にすえたりすればかならず国家をくつがえす」
というのがある。このことも、右の古傷から出たかれの政治哲学に相違ない。
右の言葉は、西郷がわかいころ、水戸の藤田東湖からきいた、という。西郷が記憶している東湖のことばは、
--小人ほど才芸があって便利なものである。これは用いなければならない。しかしながら長官に据え、重職を授けると必ず邦家を覆す。であるから決して上に立ててはいけないものである。
ということである。西郷は、この藤田東湖のことばも好きだったであろう。
この西郷の座談は、その前に小人論がついてくる。
「人材を採用するのに、君子と小人の区別をきびしくしすぎるとかえって害をひきおこす。そのわけは、世上一般に十人のうち七、八人は小人だからである。であるからよく小人の情を察し、その長所を取り、これを小職につけ、その技芸をつくさしめねばならぬ」P139~P140


投稿者 napier : 2005年08月30日 00:50


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