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2005年09月13日

翔ぶが如く(5)

ついに折り返し地点の5巻です。4巻の続きで「台湾派兵」~「明治八年・東京(原題とかぶりますが)」までです。5巻は2部構成と捉えてもいいですね。前半が台湾派兵における大久保利通の外交、後半が宮崎八郎という壮士(とでもいいましょうか)についてです。この巻では西郷は現れることはありません。

前半は実務家としての大久保利通の姿が対清外交をとおして色濃く描かれています。また、大久保の政治的姿勢をあらわしている文に以下があります。

大久保は自分をして渡清大使たらしめよという運動を、三条、岩倉に対しておこなっていたが、かんじんの陸軍に対しては超然としている。陸軍省の長州系軍人が、陸軍卿山県有朋以下、大いに反対していたが、大久保はほとんど黙殺にちかい態度をとっていた。
文官の優位がこれほど確立していた時期はなく、大久保は軍人などがいかに反対しても最終的には廟議の命ずるままに軍人は動くものと確信していた。(p50)
これは、かつての長州藩の政治形態も同様で
木戸は
「軍の代表者は政治の場に入れてはいけない」
という、政治優位の持論をもち、軍はあくまでも政治の命ずるがままに進退すべきだとしていた。この思想はかれが指導した幕末の長州藩の政治形態そのものであり、当時の長州藩にあっては、参議にあたる政務役の会議が最高機関で、奇兵隊や諸隊はそれに対してはるかに下位に立ち、政治の命ずるがままに手足になってうごくということになっていた。
 木戸はつねに、武権を持つものが政治に参加すれば全体がかならず武権の意思に引きずられる、と言い、このことはことあるごとに主張してきた。(p35)
にあらわれています。このことは同じ幕末を生きてきた大久保と木戸という二人の政治家の共通姿勢となっていますが、大久保はプロシア的宰相専制主義者、木戸はフランス的民権主義者といえ、数少ない共通項なのかもしれません。

後半の宮崎八郎はこの前半とは対を成し、志願兵として台湾にあります。この頃の宮崎八郎の活動は忙しく

八郎が明治七年、東京を風のように去ったのは、江藤新平の佐賀ノ乱に合流するためであった。熊本で同志を集めているうちに佐賀は鎮圧されてしまい、機会をうしなった。そのうち政府が台湾へ兵を出すというので志願兵として従軍し、帰国して植木学校を創め、それも同志にまかせきりにして上京した。
(中略)
 おれの頭と魂に、ここ二年のあいだ、ヨーロッパの百年が一時に入ってきた。火であぶるようにおれの魂を焦がしつづけている。台湾出兵に加わったときはおれは英国の帝国主義を欲した、帰国して自由と権利を知り、英国のミルに想いを傾けた、やがてルソーの存在を知り、さらにこのたび上京して中江篤介(兆民)を知るにおよんで、ルソーの徒になった(後略)(p355-356)
にあらわれています。

ちょうど読み終わる頃に漠然と思ったことに「九州男児」という言葉があります。これは主に薩摩男児を表している言葉だと思いました。当時の薩摩では少年の頃から「ギ(議)を言うな」という教育を激しく受けるようです。また同時に「お先師に従え」という教育を受けます。日常においては勇武と廉潔と爽快という精神を理想として教育を受け、弱いものいじめや卑怯を最も忌み嫌います。

同じ九州ながら肥後では総体的に思想を好むだけでなく、小さな違いを譲らずにそのことを囂々(ごうごう)と論ずることを好み、それによって党派を立てて相屹立する土地柄だったようです。これによって幕末においては藩論が固まらず、薩長に遅れをとることになります。

同じ九州ですが「九州男児」ときいて思うのは、明らかに薩摩の気風のほうです。


投稿者 napier : 2005年09月13日 22:57


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