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2005年12月07日

翔ぶが如く(10)

ついに「翔ぶが如く」を読了です。結末は歴史が示すように薩軍の敗北で終わるのですが、最後まで薩軍は、特に桐野利秋に代表される薩摩隼人といえる中心人物たちは大きく行動原理が変わるところはありません。ただ一人、開戦前から異論を唱えていた野村忍介は薩軍の中では異彩です。

 戦略家にはまず基本として時勢眼と社会心理への洞察力があらねばならない。さらには、すきまなく情報を収集し、その価値判断と分析にあたっては、希望や期待を捨てねばならない。開戦前、忍介はみずから大阪まで行って情報を集めた。
 桐野も、桐野に乗せられてしまった西郷以下も、「政府は累卵、あすにも崩れる」という観測のみを基調にして繰りかえし送ってきた評論新聞の海老原穆(えびはらぼく)の情報のみを情報とし、情報収集というものを一度もやったことがなかった。西郷は、桐野らの用意した輿に卒然と乗ってしまたかたちだったが、そのことを、後年、勝海舟はかれは弱殿輩に体を呉れてやったのだ、と解釈した。たしかに出発前の西郷の言動にも似たようなふしがあり、そのとおりであったであろう。しかし卒然と輿に乗ったがために一万余の弱殿輩の屍を戦野に曝してしまうということを、総帥なら行動をおこす前にすこしでも予見すべきであったであろう。西郷は情報あつめや構成についての努力をまったくしなかった。
 そのことをしたのは、元陸軍大尉で当初、小隊長身分にすぎなかった野村忍介ひとりであった。
 かれは最初暴発のときに反対し、発軍した以上は従軍し、各戦局においてしばしば戦略構想を献策したが一つとして容れられず、ついに末期の段階で豊後方面軍(奇兵隊)を編成して単独軍の活動をして豊後で成功を見た。しかし主力の敗退とともに合流せざるをえなかった。(p179)

この野村忍介がどういった気分の中で動いていたかというと、

「では、自分の一隊だけで豊後へ進出する。しかしそうとなれば官軍は三田井・細島より進出して、豊後の自分と薩軍主力を遮断するだろう(現にそのとおりになった)。そうなれば薩軍の損失ではないか」
 という旨のことをいうと、桐野は一笑して、
「たとえそうなっても、かまわんではないか」
 と突き放してしまい、取りあげなかった。(p28)
 しかし皮肉にみれば、桐野は悪度胸を据えてしまっているともいえる。
 かれは若いころから徹頭徹尾格好をつけるという男で、切腑と伊達だけで生きてきた。薩摩風の伊達そのものが本質になっているところがあり、このあたり、西郷がかれを典型的な薩摩隼人としてみてしまったのもむりはなかった。
 桐野には本来責任感などはなかった。この一挙も気腑でもって大博打をやり、いくさも気腑だけで押しまくってきた。失敗すれば、ということは考えなかった。失敗したところで西郷と薩摩一万余の士族と自分が死ぬだけのことである。戦場における死はむしろ薩人が激しくそれを美とするところだから、失敗してそれに至ったところで桐野に責められるべきところはすこしもない。門川における桐野は、いさぎよくそのようにひらき直っていたのであろう。(p113~114)
といったところにあらわれています。

この野村忍介は西南戦争後は刑に服したようです。

 しかし忍介の苦しさは、西郷の才能などよりもその人格への敬慕がやみがたいことであった。かれは要するに西郷からも疎んぜられた。それでもなお、
(桐野のような馬鹿が間を阻んでいるだけだ)
 と思っていたであろうし、また桐野の無能への怒りも、忍介自身の気分のなかでは私憤のつもりではなく、桐野が西郷をぶざまなものにした、という憤りであったであろう。忍介はのち十年の懲役刑に服し、東京の市ヶ谷監獄にあるときに、西郷の命日にはかならず悼み、一周忌には獄中で祭文を草し、追悼の詩歌を詠んだ。忍介は和歌に巧みであった。一周忌の歌は、

  命ならで何を手向けんものもなし
    初は涙の時雨のみして

というものである。(p183~184)

しかしこういった野村忍介も終戦間際には西郷からは冷たくあしらわれることになります。

 西郷が薩摩風の木強者を好み、ときには偏愛し、一方では才略のある利口者を好まなかったということは、この稿でしばしば触れてきた。
 かれは、幕末の革命指導者として郷党出身の幕僚たちを使ってきたが、そういう旧幕僚たちのほとんどは新政府の大小の要人になり、才略者の代表である大久保に仕えた。黒田清隆、西郷従道、大山巌などがその代表的存在であったが、維新後の西郷の独特の厭世感は、ひとつには栄耀を得た才略者どもへの反感と嫌悪の情も一要素をなしているかと思える。
 いま、半年戦い、そして敗れたこの段階で、野村忍介への嫌悪の気持ちが露になったとすれば野村における才略者のにおいが、たまらなくいやになったのであろう。野村にすれば、いい面の皮に相違ない。(p193~194)

司馬遼太郎さんはこういった西郷を、次の様に評しています(正しくは、評することができないようです)。

 増田のいうことは要するに、自分は諸君とはちがい西郷という人間に接してしまったのだ、ああいう人間に接するればどう仕様もない、善も悪もなく西郷と死生をともにする以外にない、ということで、増田の言葉は、西郷という実像をもっとも的確に言い中てているかもしれない。
 西郷の従弟で政府軍側にいる大山巌が、西郷の死後、西郷を語り、巨目さァには諸欲は──権力欲も金銭欲もなかったが、かろうじて挙げるとすれば人望好みがあった、といったことと、わずかに符号するかもしれない。が、多くは符合しない。要するに西郷という人は、後世の者が小説をもってしても評論をもってしても把えがたい箇処があるのは、益田栄太郎のいうこういうあたりのことであろう。西郷は、西郷に会う以外にわかる方法がなく、できれば数日接してみなければその重大な部分がわからない。西郷の幕将たちの西郷に対する気持は、増田栄太郎以上のものであったに相違ない。(p218)

このようなかたちで西南戦争終結までは西郷・桐野らを中心に物語が進み、その後、大久保の死によってこの「翔ぶが如く」は完結します。一番最初に書いた「明治初期の政治のすすめ方」に関しては「書きおえて」が印象に残りました。司馬さんが友人と酒を飲んでいたときの話だそうです。その友人が

「日本の政府は結局太政官ですね。本質は太政官からすこしも変わっていません」
 と、いった。前後が何の話だったか。私はこの友人が二十年も中央官庁につとめている技官であることを忘れていた。何か、物の破壊音を伴ったようなこの言葉を聞いたとき、私はつよい衝撃をうけたが、しかし友人はそれ以上はいわず、話題を他のことに移した。(p356)
私は小さい頃から「世の中は政財官で動いている」ということ父親から言われてきましたが、官というものをこう意識したのははじめてでした。ニュースなどで「官僚の~」といったことは常々聞きますが、それが太政官からきているということに、はっとさせられました。この「書きおえて」だけは今後何度も繰りかえし読んでしまいそうな気がします。小説としての文体よりもこの「書きおえて」の文体の方が自然に自分の中に入ってきます。これも実際には 10 巻という「翔ぶが如く」を読み終えたから感じることができることなのかもしれませんが。

最後に、読んでいたときにふと思ったことを。西南戦争の終盤、西郷は別府晋介によって介錯されますが、その首を政府軍に取られないように

「どこかへ隠せ。敵にわたすな」(p301)
といことを別府は部下に言います。
 胴はそのまま打ち棄てられた。古来の部門の慣習では頭部だけがその人物の人格の象徴で、胴はぬけがらであるということのようだった。薩兵たちが棄てて駈け去った胴だけがむなしく陽の下で脇差を帯び、拳銃をたばさんでいた。この路傍の胴は、あとで政府軍の多くの士卒が目撃した。西郷は出陣の前、私学校の会議で、この体を一同に呉れてやるといったといわれるが、そのとおりになった。(p302)
この記述を読んだときに思い出したのは「もののけ姫」の中でダイダラボッチの頭が切断された光景でした。そのシーンでは頭部だけを桶の中に入れて封印しようとしていたと思います。古来、頭部というものがどれだけ重視されていたかを読み取れる共通点だと思いました。


投稿者 napier : 2005年12月07日 01:52


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