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2005年12月12日

翔ぶが如く 雑記

「翔ぶが如く」を読み終えて 1 週間ほどたちました。この間、ふと考えていたことは桐野という男についてと目的と手段ということについてです。

桐野という男を思うと、他の一般の人(この一般の定義も難しくはありますが)に比べて、目的と手段が入れ替わっているという印象を受けます。桐野の目的は「如何に死すか」であり、これは薩摩隼人の美徳に照らし合わせた場合に「戦場にあって、爽快に」になります。この目的を遂げるための手段として西南戦争にあたったと見るべきでしょう(それ以前に、彼の人生をとおしての行動は常にその目的に則しているといえると思います)。これは以前にも引用した

失敗したところで西郷と薩摩一万余の士族と自分が死ぬだけのことである。戦場における死はむしろ薩人が激しくそれを美とするところだから、失敗してそれに至ったところで桐野に責められるべきところはすこしもない。
にあらわれています。

これとは逆に「如何にして太政官を転覆せしめるか」を目的とする野村忍介にとってみれば、西南戦争は手段でした。手段であるために戦さには勝たねばならず、そのためには戦略を用いようとします。

戦場にあっても爽やかさを旨とし、戦略などは用いずに正面からことにあたる桐野的戦術は、それ自身が薩摩的な生き方・戦い方でした。薩摩の老人たちの言う

「丁丑(ていちゅう)(明治十年)の戦さは、よかれ悪しかれ、桐野どんの戦さじゃった」
という評は、まさに正鵠を射ています。その生き方をまっとうするにおいて、目的を曲げられるような「戦略」を持ち出す野村忍介は、確かに疎んじたい気分となる人物だったことでしょう。

「手段のために目的を選ばない人」というと、パトレイバーの内海を思い出します。手段という言葉の意味は往々にして「行動」であるため、その「行動」が目的であるというやや複雑な言葉遊びになりますが、桐野の場合にはまさに西南戦争における「行動」が目的となっていました。

「翔ぶが如く」の最後は

ともかくも西郷らの死体の上に大久保が折りかさなるように斃れたあと、川路もまたあとを追うように死に、薩摩における数百年のなにごとかが終熄した(p.355)
とむすばれています。日本史には詳しくないのですがこの後長州閥が力を持つようです。

さて全巻読み終えたことですし、また時代劇スペシャルの DVD を観てみようと思います。時間 330 分らしいですが、これでもきっと短く感じるんだろうな。あと、大河ドラマ版もあるようですね。総集編で時間 411 分です。


投稿者 napier : 2005年12月12日 23:08


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