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2006年05月27日

坂の上の雲(4)

4 巻ではやっと有名な地名が現れます。

二〇三高地。

残念ながら私は、漠然と「天王山」的な意味あいしか知ってはいませんでした。ヒカルの碁 に興味を持って以降、叔父によく碁を打ってもらうことがあったのですが、重要な局面で手を抜くと「ここが二〇三高地だったのに、退いちゃっちゃダメだ」とよく言われたものです。

 たとえば海軍が献策していたのは、
「二〇三高地を攻めてもらいたい」
 ということであった。この標高二〇三メートルの禿山は、ロシアが旅順半島の山々をことごとくベトンでかためて砲塞化したあとも、ここだけは無防備でのこっていた。そのことは東郷艦隊が洋上から見ていると、よくわかるのである。この山が盲点であることを見つけた最初の人物は、艦隊参謀の秋山真之であった。
「あれを攻めれば簡単ではないか」
 ということよりも、この山が旅順港を見おろすのにちょうどいい位置をもっているということのほうが重大であった。(p25)

しかし二〇三高地攻略の詳細は次巻に持ち越されます。もう既にその章まで読み進んでしまっていますが、ここは壮絶な戦場となります。それは次巻のエントリに譲りましょう。

この巻は、大山巌と児玉源太郎らが日露戦争における陸軍の現地における高等司令部の運営を行うため明治三十七年七月六日、新橋を発つところから始まります。終わりは同年十一月二十六日、旅順への第三回攻撃が行われる朝の記述で終了します。陸軍・海軍の会戦をそれぞれ時間どおり、ときには前後して記述がなされています。

・・・という文章までを 3/28 に書いて、「坂の上の雲」に関してはエントリをまったく書いていませんでした。これは途中、割り込み的に他の本を読んでしまっていたことや、あまりにも「坂の上の雲」を読み進めていてしまい、そしてこの本に熱中するあまりの結果だったと思います。昨日、ちょうど最終巻を読み終わりました。思い出しながら各巻に関して徒然と書きたいと思います。

改めてちょっとずつ読み返し、思い出し、この巻で重要となる箇所をみるとそれは「黄海海戦」になります。ロシアの太平洋艦隊が旅順からウラジオストックへ移動するときにおきた海戦です。この黄海海戦の描写では、日本の艦隊砲に使われている砲弾の説明が行われます。砲弾に使われている火薬を「下瀬火薬」といいます。

 日本の砲弾は、下瀬正允(しもせまさちか)という無名の海軍技師の発明したいわゆる下瀬火薬が詰められている。この当時、世界でこれほど強力な火薬はなかった。その爆発によって生ずる気量は普通の砲火薬二倍半であったが、実際の力はいっそう強猛で、ほとんど三倍半であった。(p57)

この当時の世界の常識からするとこれは不思議な砲弾であり、通常は徹甲弾を用いるのが常識だったそうです。徹甲弾の効果としては艦に穴をあけ、内部において爆破をおこしめて艦を沈めることを目的とするのですが、この当時の日本海軍の考え方は装甲は貫かない代わりに艦上で砲弾を炸裂させ、その付近にある艦上の構造物を無力化させることが狙いだったようです。結果的に敵艦は浮かぶ鉄くずとなります。黄海海戦はこの下瀬火薬を使った砲弾、特に本文中「怪弾」と呼ばれる運命の一弾によって戦局が決まります。その描写は p60 より始まります。

黄海海戦は、結果的には日本に利するかたちに終結をみます。ロシア側の旗艦ツェザレウィッチはその「怪弾」を司令塔付近に受け、ウィトゲフト以下の幕僚がそこにおいて消滅をします。艦隊の頭脳がそこにいおいて存在しなくなり、またその爆発により旗艦は梶を左にきることになります。この爆発の被害は操舵員をも含めており、この操舵員の絶命の瞬間において梶にもたれかかり、左側に倒れるようにして梶をきったようです。この旗艦の動きがロシア艦隊混乱の原因となりました。

しかし日本艦隊はロシア艦隊の一艦もこの海戦では沈めることができませんでした。何が日本に利したかというと、混乱によりロシア艦隊の各艦が分断され、それぞれの艦がそれぞれの判断によって行動をおこしたことです。中立港に逃げ込む艦や旅順港に戻る艦、単身決戦に挑む艦など、意思の統一が図られることがなかったことによります。

「ロシア軍人は決して弱くなかった」 
 と、のちに東郷は語っている。
「むしろ強兵であった。しかし日本に対してやぶれた主な因は、双方の観念のちがいにあるらしい。ロシア人は戦争は人間個々がやるものだとはおもっておらず、陸軍なら軍隊、海軍なら軍艦がするものだとおもっている。このため軍艦がやぶれると、もはや軍人としての自分はつとめはおわったものと思い、それ以上の奮闘をする者は、きわめてまれな例外をのぞいてはない。日本人は、軍隊がやぶれ艦隊が破損しても一兵にいたるまで呼吸のあるうちは闘うという心をもっていた。勝敗は両軍のこの観念の差からわかれたものらしい」
 たしかにそうであった。ロシア軍艦は黄海では一艦も沈まないのに、すでにみずから敗北の姿勢をとった。これが、日本側に幸いした。(p77)
黄海海戦はこの巻の最初、「黄塵」という章で完了し、その後は陸軍側の記述になります。「遼陽」「旅順」「沙河」「旅順総攻撃」です。

日本陸軍は伝統的に砲弾や兵器に対する感覚に鈍感であることの記述から始まります。

 じつをいえば、この遼陽に展開しつつあるロシア軍に対し、日本軍は機敏な攻勢に出るべきであった。が、出ることができなかった。
 砲弾が足りなかったのである。
 海軍は、あまるぐらいの砲弾を準備してこの戦争に入った。
 が、陸軍はそうではなかった。
「そんなには要るまい」
 と、戦いの準備期間中からたかをくくっていた。かれらは近代戦における物量の消耗ということをについての想像力がまったく欠けていた。
 この想像力の欠如は、この時代だけでなくかれらが太平洋戦争の終了によって消滅するまでのあいだ、日本陸軍の体質的欠陥というべきものであった。(p104)
 が、日本陸軍は、
「砲一門につき五十発(一ヶ月単位)でいいだろう」
 という、驚嘆すべき計画をたてた。一日で消費すべき弾量だった。
 このおよそ近代戦についての想像力に欠けた計画をたてたのは、陸軍省の砲兵課長であった。日本人の通弊である専門家畏敬主義もしくは官僚制度のたてまえから、この案に対し、上司は信頼した。次官もその案に習慣的に判を押し、大臣も同様だった。それが正式の陸軍省案になり、それを大本営が鵜のみにした。その結果、ぼう大な血の量がながれたが、官僚制度のふしぎさで、戦後たれひとりそれによる責任をとったものはない。(p106)
 錯誤というようなものではないであろう。日本陸軍は、伝統的体質として技術軽視の傾向があった。敵の技術に対しては勇気と肉弾をもってあたるというのが、その誇りですらあった。これはその創設者の性格と能力によるところが大きいであろう。日本陸軍を創設したのは技術主義者の大村益次郎であった。が、大村は明治二年に死に、そのあと長州奇兵隊あがりの山形有朋がそれを継いだ。山形の保守的性格が、日本陸軍に技術重視の伝統を希薄にしたということはいえるであろう。技術面の二流性は、兵卒の血でおぎなおうとした。(p183)

3 巻のエントリで書いたことは、この陸軍と海軍の官僚制の違いに関してです。陸軍ではこのような官僚主義の横行が日露戦争に挑む前から存在しているのに対し、海軍にはその景色を認めることが出来ません。これは 3 巻のエントリでとりあげたような、薩摩的将帥という気質が陸軍には存在していなかった、といってしまえばそれまでですが、それでも

日本人の通弊である専門家畏敬主義もしくは官僚制度のたてまえから、この案に対し、上司は信頼した。次官もその案に習慣的に判を押し、大臣も同様だった。
にはその風景を(形式上)多少は認めることが出来ます。が、決定的に違うのが責任の所在です。
「それは山本サン、買わねばいけません。だから、予算を流用するのです。むろん、違憲です。しかしもし議会に追及されて許してくれなんだら、ああたと私とふたり二重橋の前まででかけて行って腹を切りましょう。二人が死んで主力艦ができればそれで結構です」

上にたつ者が責任をとるために信頼した部下に自由に行動させる、という前提がまったくなく、ただ形式的な上司であり、専門的なことは専門家に投げる、あがってきたものに関しては監査検証は行わない、という官僚主義に徹底しています。

こういった官僚主義の問題として今日の日本で特に熱い話題となっているのは社会保険庁の年金問題です。

老朽化した国家はこの官僚主義の腐敗によって内部から瓦解が始まります。

 敵よりも大いなる兵力を終結して敵を圧倒撃滅するというのは、古今東西を通じ常勝将軍といわれる者が確立し実行してきた鉄則であった。日本の織田信長も、わかいころの桶狭間の奇襲の場合は例外とし、その後はすべて右の方法である。信長の凄みはそういうことであろう。かれはその生涯における最初のスタートを「寡をもって衆を制する」式の奇襲戦法で切ったくせに、その後一度も自分のその成功を自己模倣しなかったことである。桶狭間奇襲は、百に一つの成功例であるということを、たれよりも実施者の信長自身が知っていたところに、信長という男の偉大さがあった。
 日本軍は、日露戦争の段階では、せっぱつまって立ちあがった桶狭間的状況の戦いであり、児玉の苦心もそこにあり、つねに寡をもって衆をやぶることに腐心した。
 が、その後の日本陸軍の歴代首脳がいかに無能であったかということは、この日露戦争という全体が「桶狭間」的宿命にあった戦いで勝利を得たことを先例としてしまったことである。陸軍の崩壊まで日本陸軍は桶狭間式で終始した。
(中略)
「日露戦争はあの式で勝った」
 というその固定概念が、本来軍事専門家であるべき陸軍の高級軍人のあたまを占めつづけた。織田信長が、自己の成功体験である桶狭間の自己模倣をせず、つねに敵に倍する兵力をあつめ、その補給を十分にするということをしつづけたことをおもえば、日露戦争以後における日本陸軍の首脳というのは、はたして専門家という高度な呼称をあたえていいものかどうかもうたがわしい。そのことは、昭和十四年、ソ満国境でおこなわれた日本の関東軍とソ連軍との限定戦争において立証された。
 この当時の関東軍参謀の能力は、日露戦争における参謀よりも軍事知識は豊富でありながら、作戦能力がはるかに低かったのは、すでに軍組織が官僚化していてしかもその官僚秩序が老化しきっていたからであろう(p256-257)

ちょっと舞台はとび、以下はペテルブルグにおける会議の風景です。

 この宮廷会議は、当時の日本の政治家からみれば、奇妙なものであったろう。
 ほとんどの要人が
 ──艦隊の派遣は、ロシアの破滅になる。
 とおもいながら、たれもそのようには発言しなかった。文官・武官とも、かれらは国家の存亡よりも、自分の官僚としての立場や地位の保全のほうを考慮した。
「敗ける」
 といえば、皇帝の機嫌を損ずるであろう。損ずればかならずやがては左遷された。そのことは、この席にはいないウィッテ(かれはすでにしりぞけられて閑職にあった)が、書いている。
「私もこの種の会議に何度も列席したが、列席者はあらかじめ、その議題についての陛下の御内意を知っているか、推察していた。その御内意に反すまいとした。御内意に反する意見を持っているときは、言うことをさしひかえた」
 老化した官僚秩序のもとでは、すべてこうであった。一九四一年、常識では考えられない対米戦争を開始した当時の日本は皇帝独裁国ではなかったが、しかし官僚秩序が老化しきっている点では、この帝政末期のロシアとかわりはなかった。対米戦をはじめたいという陸軍の強烈な要求、というより恫喝に対して、たれもが保身上、沈黙した。その陸軍内部でも、ほんの小数の冷静な判断力のもちぬしは、ことごとく左遷された。結果は、常軌はずれのもっとも熱狂的な意見が通過してしまい、通過させることによって他の物は身分上の安全を得たことにほっとするのである。(p328-329)

官僚主義、といってしまえば簡単ですが、これは難しい問題です。ここでは軍が取り上げられていますが、現在社会においては一般的な組織に適用できます。政府や官庁、会社などです。

さて、先の宮廷会議においてバルチック艦隊が東征することがきまり、ロジェストウェンスキー(海軍軍令部長兼侍従武官(p229))がその司令長官となります。このロジェストウェンスキーがどの様な人物であったかは、いかに記述で読み取れます。

 バルチック艦隊の司令長官であるロジェストウェンスキー中将は、どちらかといえば日本の陸軍大臣寺内正毅に似ているであろう。
 創造力がなく、創造をしようという頭もなかった。事務家で、事務にやかましく、全能力をあげて物事の整頓につとめ、規律をよろこび、部下の不規律を発見したがる衝動のつよさは異常で、双方とも一軍の将というよりも天性の憲兵であった。さらに双方とも、その身分と位置は他のたれより安泰であった。なぜなら、ロジェストウェンスキーは皇帝ニコライ二世の寵臣であり、寺内正毅は山形有朋を頂点とする長州閥の事務局長的な存在であった。日本にとって幸いだったのは、寺内が陸相という行政者の位置につき、作戦面に出なかったことであった。ロジェストウェンスキーは、対日戦の運命を決すべき大艦隊の司令長官として海上を駛っているのである。(p321-322)

陸戦のほうは旅順の問題が深刻化しています。旅順攻略にあたったのは、私でも名前を知っている乃木将軍です。乃木希典が第三軍の軍司令官になるいきさつは、

 やがて大本営が第三軍をつくることになったとき、軍司令官に補せられたのは、ひとつには長州閥の総帥山形有朋が推薦したからでもあった。ついでながら、第一軍から第四軍、及び鴎緑江軍にいたるまでの軍司令官が、第二軍の奥(福岡県出身)をのぞくほかぜんぶ薩摩人で、長州人がいなかった。薩長両閥人事のバランスをとるために、長州人の乃木を入れることは、この当時の人事感覚からみて安定感があったのだろう。(p24)
からわかり、
 そのかわり、乃木に配する近代戦術の通暁者をもってすればいいということで、薩摩出身の少将伊地知幸介を参謀長にした。(中略)ところがこの伊地知が、結局はおそるべき無能と頑固の人物であったことが乃木を不幸にした。乃木を不幸にするよりも、この第三軍そのものに必要以上の大流血を強いることになり、旅順要塞そのものが、日本人の血を吸い上げる吸血ポンプのようなものになった。(p24-25)
という不幸も孕みます。

乃木希典率いる第三軍は六月二十六日、剣山の堡塁を抜きます。しかしその後、旅順後略は苦戦に苦戦を重ねます。八月二十日前後、第一次総攻撃で日本の死傷者は一万六千、九月十九日(及び十月二十六日)の第二次総攻撃で死傷者四千九百、これに対して要塞側はびくともしません(p190,308,397)。そして第三次総攻撃が十一月二十六日、開始されます(p390)。しかしこの第三次攻撃は敵将であるステッセル将軍は予見しており、防御を怠ってはいません。また東京の大本営でもこの二十六日という周期的な攻撃日に懸念を抱いています。

「わざわざ敵に準備させ、無用に兵を殺すだけのことではないか。いったい乃木や伊地知はどういうつもりで二十六日をえらぶのか」
 ということを総長の元帥山形有朋も、次長の少将長岡外史もおもい、こんどの第三回総攻撃にあたって、この疑問だけのために東京から森邦武中佐を使者として送り、柳樹房の乃木軍司令部を訪ねさせた。これに対し、伊地知参謀長が返答したのは、以外な理由であった。
「その理由は三つある。その一つは火薬の準備のためだ。その導火索は一ヶ月保つ(一ヶ月たつとカゼをひき、効力がうすれる)。だから前回の攻撃から一ヶ月目になるのだ」
 という科学性にとぼしく、しかも戦術配慮皆無の理由がひとつ。
「つぎに、南山を攻撃して突破した日が、二十六日だった。縁起がいい」
 さらにいう。
「三つ目は、二十六という数字は偶数で割りきれる。つまり要塞を割ることができる」
 乃木も横で、大いにうなずいていた。この程度の頭脳が、旅順の近代要塞を攻めているのである。兵も死ぬであろう。(p397-398)

陸軍と海軍、人事の明暗を思わずにはいられません。


投稿者 napier : 2006年05月27日 16:23


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