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2006年06月25日

崩し

もう「帯ギュ」を最後に読んでから何年たっているかわかりませんが、いろんなニュースを見るたびに思い出すのが「崩し」に関してです。

何巻の何ページであったかはもう忘れてしまいましたが、巧が現役の警察官に稽古をつけてもらう場面です。組み合ったときに、その警官(確か柔道部顧問の倉田龍子の兄だったかな?)が巧の胴着を少し上に吊り上げます。そのまま巧みは投げられることになりますが、投げられた後の巧みの質問にその警官は「あれは一種の崩しだ」と答えます。

高段者の振る舞いに対しては得てして低段者の理解は及びません。「物がみえている/みえていない」といったような言葉がありますが、この辺はそれに由来するものだと思います。上手にあるものは、かといってそれを露骨(臭くならない程に、程度の意)にするわけではなく、それと知れずにうまく分からせる技術にも長けるべきだと私は考えます。

この「崩し」の一例としては、今クールのドラマ「弁護士のくず」にそれを見ることができます。それでもこれはドラマ(というか原作マンガな分)、意外と露骨な形でそれがわかります。そしてそれは視聴者がそれを露骨と感じる分、意外と製作サイドの露骨な部分が中和されて感じます。露骨さを愛嬌と感じる、と言った感じですね。

最近の悲惨なニュースを見てると、みんな「崩し」という人と人との接し方を知らなかったんだろうな、と感じます。正面から「力 vs 力」でガチに組んでしまって、ひくにひけないところまでいってしまったんだろうな、と。日本のような「本音」「建前」前提な複雑な社会は、そういった力の入れ方・抜き方・崩し方が、変な意味で処世術として重要なウェイトを占めるのかもしれません。

私はよく、「それって感情論じゃん」ということを考えますが、意外と感情論というのは重要かも、と最近では考え始めています


投稿者 napier : 2006年06月25日 22:24


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