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2010年04月15日

葵上 卒塔婆小町

aoinoue_sotobakomachi.jpg
三島由紀夫
演出・美術美輪明宏
出演
<葵上>六条康子=美輪明宏
若林 光=木村彰吾
<卒塔婆小町>老婆(小町)=美輪明宏
詩人=木村彰吾

観てきました。演劇自体あまり観ることがないのでとても興味深く観ることができました。そんなわけで率直な感想を。

この演劇を見るにあたって、原作である三島由紀夫の近代能楽集から『葵上』と『卒塔婆小町』は読んでいました。その感想は「・・・謎」でした(苦笑)

そもそもの原点である『葵上』と『卒塔婆小町』を知らないため、何故三島がその舞台を現代に変えて書き直したのか、どういった味付けにおいて現代劇に直すに足るという判断を行ったのか、またその判断の後に出来上がった作品がどういった意味とオリジナルとの違いを持つのか、に関して全く思考が至らなかったから、というのが率直なところです。

そんなわけで、戯曲を読んだときの感想と演劇を観た後との感想はほぼ「・・・謎」という意味において同じなのですが、自分が「読む」という時間ではなく演出によって作られた舞台を「観る」という時空間においてその認識の仕方は異なりました。

『葵上』は読んだときとほぼ同じ感想でしたが、『卒塔婆小町』は観ている間にいろいろと思いをめぐらせることができました。それは第一劇として『葵上』があったからかもしれません。両方に共通して言えることは「この物語は何の上でおきていることなのか?」という認識と舞台の話です。

両劇とも物語の主部においてそれは、現実世界の物語が演じられているとは言えないと言えます。卑近な例としては芥川龍之介の『藪の中』。当事者であるそれぞれの人物がそれぞれに自分のいいようのみを主張し、読者はそれらうちどれが事実であったのか、もしくは部分的に組み合わせることによってそれらが事実足りえたのかを考えさせられます。戻ってこの『葵上』と『卒塔婆小町』もそれぞれ、主部はある個人の妄想をあらわしているようにもみえます。

そしてまだ本と劇とでの感想の差異は細部にもあらわれました。『卒塔婆小町』の老婆の数える煙草が、本では何の意味があるのだろうと全く想像できなかったのに対し、劇では自分を好きになって死んでいった男たちを数えるかの如くに感じられたことです。これはもちろん舞台最後での話です。

その他理系的な発想では(笑)、新宿の背景と鹿鳴館の背景をどのようにして分けて見せていたのかに関して終始気になりましたw 多分、鹿鳴館背景が最後列にあり、その背景からライトを灯すと鹿鳴館のみが見える。新宿は半透明もしくはメッシュ地に高層ビル群が描かれており、前面からのライトによってのみ反射する素材になっている(そのとき背景の鹿鳴館は陰影が分からずバックに馴染んでいる)、のかなぁといったのが考えた結果です。

何にせよ、オリジナルを読んでみないことにはその本質に辿りつけないというのは真実であると思います。逆にオリジナルを理解して『近代能楽集』を理解した後には、現代における能楽集もまた描ける素地になるでしょう。

どちらの物語も時間軸が途中で分岐し、観客は分けられていない時間軸を観ていると思っているにもかかわらずそれが違う時間軸上の物語である、といったところが決め手だという気がしています。ここでは時間軸と言う言葉を使いましたがいろんな言葉に換言できると思います。妄想、追想、連想、その他あらゆる人の想いです。

もう一点は対比。昼と夜、光と闇、現実と空想、常識と禁忌、男と女。こうやって三輪明宏さんが女形を演じるというのも、能という原点からの統一された様式であるかのようにも感じます。


投稿者 napier : 2010年04月15日 01:35


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