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2005年11月06日

翔ぶが如く(8)

第八巻をひらいてまず驚いたのが章立ての多さです。「人馬」からはじまり「野の光景」で終わる 15 章の構成です。これを七巻までと比べてみると以下の様になります。便宜上、最終巻である十巻までまとめると

  • 一巻 8 章
  • 二巻 7 章
  • 三巻 10 章
  • 四巻 6 章
  • 五巻 10 章
  • 六巻 9 章
  • 七巻 7 章
  • 八巻 15 章
  • 九巻 11 章
  • 十巻 11 章
のようになります。

1 章である「人馬」には興味深い逸話として、維新前と維新後の西郷の変わりように関する記述がみられます。この変化に関して、鹿児島では病理的な原因があったのではないか、と極めて密かにではあるがささやかれているとのことです。こういった逸話はこの本を読むまでは全く知らなかったことです。遠い記憶を呼び戻して「知ってるつもり!?」での西郷の回を思い出してみても、出てくるのは「敬天愛人」という言葉だけです。が、この「翔ぶが如く」では未だに一度足りとも読んだ記憶がありませんね。いつから言われるようになったのか、それとも司馬遼太郎があえて外しているのか、最後まで読み解かないとこれに関する結論は得られません。

この「人馬」では西郷の変節ぶりが示されるのですが、それはこういった変わりかたです。

 しかし起つ以上は、戦いの方針その他について西郷はみずから案も練り、みずから発言し、進んでかれらを指導すべきであった。が、そのことはいっさいせず、さらに驚くべきことには、西南戦争の全期間を通じて西郷は一度も陣頭に立たず、一度も作戦に口出ししなかったのである。
 維新前の西郷はそうではなかった。西郷が心服しきっていた旧主島津斉彬でさえ、
 ──西郷は 悍馬のようなものだ。かれを統御できるのは、自分しかいない。
 といっていることからみても、西郷は斉彬に対し言うべきことを臆することなく言っていたに違いない。
「維新前の南州翁と維新後の南州翁は別人のような感じがする」
 という印象が、鹿児島に遣っている。
 たしかに、別人の観がある。
 (中略)
 この点、西郷はそのひらきが甚だしすぎるように思える。(p13~14)
この記述における西郷像はこの巻をとおして貫かれており、この巻の流れをも決めています。自然、西郷に関する記述は薄くなり、西南戦争の主役は陣頭に立つ各将及び兵士、そして政府側の責任者である山県有朋などの記述が多数を占めます。

西南戦争における兵の動き、軍隊の動きに関する記述は読んでいてあまり面白くはありません。これは読み手である私が文章からの場面の連想を面白く感じないからだと思います。コンピュータゲームを通して視覚的に兵の動きがリアルタイムで移り変わる様に 10 年以上もの年月で慣れてしまっているため、文章のみをとおした記述が怠惰でなりません。七巻からの巻末には地図が付加されるようになり、七巻では九州全図、八巻では熊本城から高瀬までの周辺地図が掲載されていますが、状況ごとに隊の動きを地図をもって記述してもらいたかったと思います。小林秀雄の「モーツァルト」における楽譜のように。

これとは逆に山県有朋や薩摩側の将の意識における記述には興味を惹かれます。

 山県は、軍人としては物事をこまかく指示しすぎる性格のために野戦将軍にはむかない男だったが、その構想力と緻密な運営能力と、さらには物事に賭博的な期待を持たない性格から考えて、日本ではめずらしく補給の思想と能力をもった男であったかもしれないかった。(p286)
 この時期の陸軍卿山県有朋は、一個の独裁者に似ていた。かれを独裁者たらしめている政治的条件は、長州人であることのほかは希薄なのだが、しかしその信念である徴兵制をかれが立案し、実施し、このために鎮台の実情をかれ以上に知っている者はなく、また他の者は山県ほどの実務の才をもっていなかったため、自然、山県一人が、動員から作戦、補給、さらには東京への政治的措置に至るまで、何もかもやってのけるということになった。後年、かれが陸軍と官僚界に法王的な地歩を占めるにいたる基礎は、このときにできあがった。言いかえれば、西郷のおかげで、この狭隘な理想しか持ち合わせていない卓越した実務家が、明治政府の権力者になりえたといえるであろう。(p288)
狭隘(きょうあい) : (2)心がせまいこと。度量がないこと。また、そのさま。

山県有朋に関しては私は全く知らないのですが、司馬さんのこういった記述をよく見かけます。かなり嫌われている感が読みとれます。
西郷と薩軍の作戦案は、いかなる時代のどのような国の歴史にも例がないほど、外界を自分たちに都合よく解釈する点で幼児のように無邪気で幻想的で、とうてい一人前のおとなの集まりのようではなかった。これとそっくりの思考法をとった集団は、これよりのちの歴史で──それも日本の歴史で──たった一例しかないのである。昭和期に入っての陸軍参謀本部とそれをとりまく新聞、政治家たちがそれであろう。(p81)
 薩軍本営には、継続して全般の作戦を考えている参謀職の者がいなかった。
 薩軍に存在するのは、実戦職である大隊長たちだけで、かれらが臨機に本営にあつまってきては情報を持ち寄り、合議するだけであった。西郷そのひとは本営の奥で象徴として起居しているだけで、作戦に触れることがない。(p252)
 当初、鹿児島を出るときの私学校の政略は西郷軍が東京にせまることによって満天下の不平士族(だけでなく各地の鎮台まで)が風をのぞみ、あらそって軍旅に投じ、ゆくにつれて軍勢は雪だるまのように大きくなり、ついには東京を圧倒するにいたるというものであった。(p260)
こういった意識の中、読んだときには信じられなかったのですが、西郷と桐野は後々には仲たがいのような状況に落ちていくようです。
 西郷はのちに桐野と口をきかなくなり、桐野のほうでも西郷を避けるような気配を示すようになったといわれるが、西郷の側でいえば、その感情はあるいはこのときから出発したものかもしれない。
 むろん、西郷の性格として桐野を責めたりなじったりすることはなかった。この男に乗せられてしまった自分に対する嫌悪が、西郷の桐野に対する感情を重くしたのではないかと思える。(p317)

このような両軍の陣営ですが、各巻のところどころにあらわれる大村益次郎の記述には、明治政府が失ってしまった偉大な人物であったことがひしひしと伺えます。

これは、明治元年、二年の間にすでに西郷が九州で反乱をおこすであろうということを予見した当時の兵部大輔大村益次郎の基本的な考え方であった。(p286)
大村益次郎(村田蔵六)は「お~い!竜馬」を読んだときに知った人物ですが、このマンガではとてもコミカルな絵で描かれており非常に愛着を持ちます。以前書いた斉彬を調べてみたいと思ったのと同様、大村益次郎も詳しく調べてみたい気分にさせられる人物です。

さて、その他興味を惹かれるのは銃器の移り変わりですね。スナイドル銃、ミニエー銃などがよく文中にはあわれます。これは時間があったときにでもまとめてみたいと思います。ちょっと検索した限りでは、

などがヒットしました。やはり web は便利だ…。


投稿者 napier : 2005年11月06日 19:45


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