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2009年04月28日
正論のつよさ
タイトルを「強さ」にしようか「鋭さ」にしようか迷いました。「鋭さ」にすると「正論としての確度」的なニュアンスが強くなると思い「つよさ」にしました。というわけで「卵と壁」の続きです。
気になっていた「正論原理主義」という言葉ですが、ちょっと自分の想像と異なっていました。コンテキスト的には以下などを参照してください。
- 「正論原理主義」を乗り越えて:佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 - CNET Japan
http://japan.cnet.com/blog/sasaki/2009/03/17/entry_27021160/
私の解釈では「ある方向から見ると正しい理論をその方向からのみ見て声高に叫ぶ。そのコンテキスト上では正論であるから。他の理論が現れてもコンテキストが違うことを認識せず、自分のコンテキスト上の結果(正論)とは違うことのみをあげつらい、排斥をする」、といった感じです。
簡単に言うと、コンテキストの認識の仕方の差が結果に影響を与える、ということになります。立場の差、といってしまってもいいかもしれません。ここで立ち戻りたいのが「卵と壁」です。
この「卵と壁」に対して「正論原理主義」をそれぞれかけた場合には、彼はどのように判断するのでしょうか。
- { 卵・正論原理主義 : 壁 }
- { 卵 : 壁・正論原理主義 }
最近自分の思う「正論のつよさ」とは、立場がどんなに劣勢でも負けることの無い「つよさ」を考えてしまいます。ズルい強さ、といってもいいかもしれません。「無く子と地頭には勝てぬ」や最近の「エコなんとか」などはズルい強さ、だと思います。女性の涙や非暴力不服従なんかはどうですかね。これらはコンテキストよりな気もします。
そしてもっとも厄介なのが、相手が間違っていると大多数の人が見て分かる状況にもかかわらず相手は振り上げた拳の下ろし場所が無く、こっちは正論であるために譲歩をしづらい場合。この場合のつよさを和らげる方法は、、意外と諺なんかあるんでしょうか?
投稿者 napier : 2009年04月28日 00:18
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