« Lagoa Multiphysics 1.0 | メイン | ニコ生 電子書籍『AiR』 »

2010年07月23日

借りぐらしのアリエッティ

連休中に見てきました。劇場でジブリ作品を観るのはいつぶりだろうというくらい久しぶりです。この作品は事前の情報を全く知らずに(唯一声優だけは知っていましたが)観て来ました。

以下ネタバレを含みます。

まず思ったのが、何故物語の根幹が「人間」と「人間に見られてはいけない小人」という対立軸で描かれなければならなかったのか、ということです。

劇中、セリフを初めて聴いたときには「借り」が完全に「狩り」に聞かせる様な作りであり、そして人に見られてそこから立ち去る流れは、今までが「仮」の暮らしであったからであるかのよう、でもあります。

人と共に何かが暮らしているという考え方は古くから日本人には馴染みの深い考えであると思います。例えば「座敷童子」。オリジナルの座敷童子に「人に見られたらそこから立ち去らなければならない」という設定があったかどうかは知りませんが、古い家に住み着いておりその家に幸福をもたらすと言われている、という妖怪であったと思います。

さて対立軸に話は戻って、ジブリ作品の根幹には常に何らかの対立軸が設定されています。その対立軸を超えるのは常に人間の側で、その反作用が物語の主軸として描かれます。その事に対しての結末は、物語としての完了形は常にありますがその事を選んだのは劇中の登場人物たちで、観劇する私たちは常にその選択でよかったのかどうなのか、といった選択を意識的にしろ無意識的にしろ迫られている、といえます。

このアリエッティの物語が描かれている時代のずっと前にはきっと「人間」と「小人」たちは共存していたのだろう、と思います。これは勝手な一観劇者の妄想ですが、何故それができなくなってしまったのか。

「小人」というのは「謎」の象徴である、と思います。人が世の中の仕組みを知りたいと思って解明してきた「謎」といわれるもの。神秘的なものや幻想的なものを畏怖する心。天気であったり、昼と夜であったり、太陽や月や星、夏や冬といった自然世界。そういったものを人間の言葉で定義し理解できるようになったとき、それらは「自然」の側から「人間」の側に属することになります。人間が単にそのように錯覚しているに過ぎないのかもしれません。今まで謎と思われていたことを理解することが出来た、というように。

その段階になって「謎」は姿を消します。単に「法則」というような、一見すると味気ない言葉に置き換わります。「小人」は「人間」の前から姿を消さねばなりません。

もちろん、アリエッティを見ればかわいいと思いますし、翔との心の交流の過程は現実における人間同士のそれ自身だと思います。単に「小人」を「人間」に置き換えれば、古い風習に従わざるを得ない一族と別の一族、といった見方さえできるでしょう。

と、自分の思ったリファレンスを記しておいて、他の人がどういう感想を持ったのか web の海を廻ってみようと思います(笑)


投稿者 napier : 2010年07月23日 00:19


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://will.squares.net/mt/mt-modified-tb.cgi/1181