2006年04月14日
無常という事
「或云、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つづみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれて云、生死無常の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけ給へと申すなり。云々」
これは、一言芳談抄のなかにある文で、読んだ時、いい文章だと心に残ったのであるが、先日、比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細剄な描線を辿る様に心にしみわたった。(後略)モオツァルト・無常という事 小林秀雄 ISBN:4101007047小林秀雄の文学(批評)は、私には到底単純には理解できない部分があります。が、この「無常という事」におけるこの引用から始まる文体、それ自身にはメソッドとしての小林秀雄の方法論を読み解く鍵が多分に隠されていると思っています。
という私は、高校時代の現国でこれを習って以降、その先生が「小林秀雄は苦手だ」といった発言を鵜呑みにして、自分も「苦手だ」というカテゴライズをしてしまったクチです。これは中学生のときに理科の先生が「電気は難しいからな」といってそれ以降、電磁気学が苦手になったのと同じことではあります。どうでもいいことですが:-)
今日も呑みが渋谷であったのですが、電車での帰途、途中で思い出したのがこの小林秀雄の「無常という事」でした。今となってはもうそれが何を意味していたのかを知る術はありませんが、其のときの気持は小林秀雄が「無常という事」を書くきっかけになった気分と同一だろうと思っています。
当時の文学雑誌や同人誌への投稿は、世が世である現代では Blog というツールへかたちをかえて受け継がれているんだな、と妙に今は感心しています。
投稿者 napier : 2006年04月14日 23:56