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2005年08月10日
半島を出よ(4)
下巻を読み終わりました。最終章で「愛と幻想のファシズム」のあるシーンで感じた、懐かしい感覚がよみがえりました(そのときの衝撃ほどではありませんが)。それは、スズハラやアイダたちが会議を行っている一室。会議も終盤に差し掛かり、メイド(といっても高齢の女性だったと思いますが)が会議室の空気を入れ替えるためにカーテンと窓を開けるシーンです。その詳細は忘れてしまっていますがそのシーンだけは記憶から離れていません。
下巻で印象に残ったシーンを、少し冗長ですが何点か。
NHK本局は、なぜ福岡の人びとの今の気持ちを確かめようとするのだろうか。十二万人の後続部隊がついにこっちに向かったのだ。すべての市民が不安と恐怖を感じているに決まっている。それなのに、不安で胸がいっぱいです、という町の声を紹介したがるのはなぜだろう。黒田は、高麗遠征軍が来るまでテレビにそういう違和感を持ったことはなかった。サヨナラホームランを打った選手に今の気持ちを聞かせてくださいとマイクを向けるアナウンサーがいても、気にならなかった。サヨナラホームランを打ったのだからうれしいに決まっているのにどうしてそんな質問をするのだろう、と考えたこともなかった。大多数の視聴者は、ニュースで事実を知りたいとは思っていない。単に安心したいのだ。不安で夜も眠れません、震える声で福岡市民がそう訴えるのを見て、かわいそうだよねと言いながら、安心感を得たいのだ。そしてテレビはその期待に応えようとする。だがヨシダは、こちらは普段と変わったところがありませんと言って期待を裏切った。街の人びとへのインタビューもなかった。(p187)※1
だが、そういう夢はどこか歪んでいるような気がした。やはりここは破壊されるべきだと、必ず最後にはそう思った。正面の半円形のガラスの壁にカフェ・ラグナグというネオンが下がっている。架空の南国の島の名前で、楽園を象徴しているらしい。ここは熱帯を模倣し、その気分を味わう空間だ。熱帯をなぞっているのだ。シノハラのビバリウムはここよりはるかに小さいが、熱帯を再現しようとしていて、なぞろうとはしていない。シノハラのビバリウムはヤドクガエルの生育環境を最優先に作られているが、ここは違う。福岡に来る前に出会った連中はみんな何かをなぞっていた。暖かな家庭とか善良な人間とか幸福な人生とかそれぞれにモデルがあって、みんなそれを模倣し、なぞっているだけだった。(p319)※2
こういうことなんだな。切取線を描き終え電動ハンドカッターのスイッチを入れて、ブレードを化粧板に近づけながら、ヒノはそう呟いた。自分を含めて、イシハラのところに身を寄せた連中は、大人の指示に従わず、頭がおかしいと大人たちに言われ続け、決して許されない犯罪を犯そうとしたり、実際に犯した者ばかりだ。更正しろと言われ続けてきたが、更正という言葉の意味さえ誰も知らない。
教師や施設の職員やその他の大人たちはヒノに、人の命は何よりも尊いのだとクソのような言いぐさを呪文のように繰り返すだけだった。イラクやアフガニスタンやシリアの内乱では毎日大勢の人が死んでいて、スーダンやエチオピアの紛争では数十万人の子どもが餓死したそうだ。だが教師や施設の職員やその他の大人たちにとって、そういった現実は命の尊さとは無関係らしい。自分たちの周りにある命だけが尊いのだ。そういった腐った大人たちから正しく生きろと言われても子どもは何のことかわからない。もちろん素直に従う子どももいる。だがそいつらは大人が正しいのだと自分で判断して従うわけではない。大人に従えば利益があって、従うのを拒否すると罰が与えられるのを知っていて、それから逃れているだけだ。大事なのは、今のヒノやタケグチみたいに、やらなければならない何かを見つけることだ。何もすることがなければ、腐ったものを見続け、腐った大人たちの言うことを聞きつづけることになり、そしていつの日か大人に従い指示通りに生きたところで何の興奮もなく、楽しくもなかったということに気づき、ネットで仲間を募集して自殺するか、ホームレスになるか、あるいはあきらめて大人の奴隷になってこき使われて、それで一生を終わることになる。(p374-375)※3
リアルな現実というのは面倒くさくやっかいなものだ。戦後日本はアメリカの庇護に頼ることによってそういった現実と向かい合うことを避けてきた。そういう国はひたすら現実をなぞり、社会や文化が洗練されていくが、やがてダイナミズムを失って衰退に向かう。(中略)あいつらが福岡と九州に居座れば、東京もリアルな現実と向き合わざるを得なくなっただろう。(p479-480)※4
※1 青空文庫より、鼻
――人間の心には互に矛盾(むじゅん)した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥(おとしい)れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。
※2 天空の城ラピュタより
今は、ラピュタが何故滅びたのかあたしよくわかる。ゴンドワの谷の詩にあるもの。土に根をおろし、風と共に行きよう。種と共に冬を越え、鳥と共に春を唄おう。どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんのかわいそうなロボットを操っても、土からはなれては生きられないのよ。
※3 PLANet blog.より スティーブ・ジョブスのスピーチ
アップルをクビになっていなかったらこうした事は何ひとつ起こらなかった、私にはそう断言できます。そりゃひどい味の薬でしたよ。でも患者にはそれが必要なんだろうね。人生には時としてレンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こるものなのです。だけど、信念を放り投げちゃいけない。私が挫けずにやってこれたのはただ一つ、自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。それは仕事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを占めていくだろうけど自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ一つ、自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかない。そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ一つ、好きなことを仕事にすることなんですね。まだ見つかってないなら探し続ければいい。落ち着いてしまっちゃ駄目です。心の問題と一緒でそういうのは見つかるとすぐピンとくるものだし、素晴らしい恋愛と同じで年を重ねるごとにどんどんどんどん良くなっていく。だから探し続けること。落ち着いてしまってはいけない。
※4 劇場版パトレイバー2より
後藤: 荒川さん、あんたの話、面白かったよ。欺瞞に満ちた平和と、真実としての戦争。だがあんたの言うとおり、この街の平和がニセモノだとするなら、やつが作り出した戦争もまた、ニセモノに過ぎない。この街はね、リアルな戦争には狭すぎる。 荒川: ふっふっふ。戦争はいつだって非現実的なもんさ。戦争が現実的であったことなど、ただの一度もありゃしないよ。
柘植: ここからだと、あの街が蜃気楼のようにみえる。そう思わないかね。 南雲: たとえ幻であろうと、あの街ではそれを現実として生きる人びとがいる。それともあなたにはその人たちも幻に見えるの。 柘植: 3年前、この街に戻ってから俺もその幻の中で生きてきた。そしてそれが幻であることを知らせようとしたが、結局最初の砲声が轟くまで誰も気づきはしなかった。いや、もしかしたら今も…。 南雲: 今こうしてあなたの前に立っている私は、幻ではないわ。
長すぎますね。。自分でもちゃんとまとまりません。
投稿者 napier : 2005年08月10日 22:13
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