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2005年11月23日
翔ぶが如く(9)
9 巻は西南戦争の中盤です。8 巻のときも書きましたが、やはり兵の動きに関しては興味が湧きません。本文中、興味深かった文章を引用すると
この西南戦争がどのような形で終結を見るのかには興味が湧きます。奇兵隊、振武隊、正義隊、行進隊、干城隊、雷撃隊、常山隊、鵬翼隊、破竹隊の九つの隊が、かつての大隊の代わりをなす最高単位になった。壮士の剣舞を見るような小むずかしくて意味の熾(さか)んな語が撰ばれたのは、逆にいえば戦闘力という実質がうしなわれつつあるために、名称で景気をつけざるをえなくなったのであろう。
(中略)
前記九つの大隊の総指揮は、元陸軍少将桐野利秋がとることになった。後年、薩摩の老人たちが、
「丁丑(ていちゅう)(明治十年)の戦さは、よかれ悪しかれ、桐野どんの戦さじゃった」
といったようなこの事変における一つの本質が、いっそう露になったといえる。
西郷は、相変わらず指揮をとる気配を見せていない。このため、旧大隊長が幕僚になったところで、そこから作戦がうまれるということは、どうやら見込み薄のようだった。軍は、桐野がほぼ握った。この事情の機微は、最初から暴発へ持ちこんだ桐野利秋の一種の責任とりとも見ていいだろう。(p276-277)
また、この巻では宮崎八郎が戦死します。彼は 5 巻において最も華々しく描かれていた人物でした。
この点、かれは詩的気分としては幕末のの志士たちの正統の後継者であったといえなくはない。かつての志士たちの多くは、自分の人生や生命を一篇の詩として昇華することを望んだが、人民を座標においた最初の革命家である宮崎八郎もそうであった。その望みのように、死が弾雨の中の萩原堤でするどくかれをとらえた。下腹部の毛管銃創は、致命傷であった。(p223-224)
そして日本における戦争の慣習に関しても言及があります。
司馬さんは常に第二次世界大戦における日本軍に話を持っていきますね。これも「知ってるつもり?!」の受け売りですが、司馬さんは第二次世界大戦に関する小説は書けなかったそうです。ノモンハン事件に関して資料は集め、いろいろと構想は練っていたという感じで番組は進んだと記憶しています。しかし、どういったことが原因だったかは忘れてしまいましたが「ノモンハンは書けない」という風に番組では説明されていた記憶しています。司馬さんに関する「知ってるつもり?!」の回は久々に観たくなりました。諸道の政府軍の進撃を早からしめた理由のひとつは、各地で降伏した薩軍の小部隊が、降伏するとともに政府軍の道案内をつとめ、薩軍の配置などを教えたからであった。べつに政府軍が強制したわけでなく、
「降伏したからには、官軍として働きたい」
と、かれらが積極的に望んだからであり、その口上はさらに情緒的で「万死を冒して前罪を償いたい」というものであり、一種、奇妙というほかない。
このことは日本古来の合戦の慣習であったであろう。降伏部隊は鉾を逆にして敵軍の一翼になるというものであり、駒を奪ればその駒を使うという日本将棋のルールに酷似している。ついでながらこの慣習はその後の明治陸軍の弱点として意識されつづけ、日露戦争のときも捕虜になった日本兵は日本軍の配置を簡単にロシア軍に教えた。(中略)この体験が、昭和以後、日本陸軍が、捕虜になることを極度にいやしめる教育をするもとになったといっていい。(p319)
さて、残すは 10 巻のみとなりましたが、まとめ方を興味深く読むことにします。注目して読もうと思っていた「大久保と西郷の決別」に関しては、既に大体は感じは掴めています。残りは最後、かれらの心情をどのように司馬さんが小説に仕上げたか─。
投稿者 napier : 2005年11月23日 21:53
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