2005年07月25日
翔ぶが如く(3)
3巻を読み終わりました。西郷は征韓論に敗れ(西郷自身は「征韓論」とは言わず、遣韓大使として朝鮮に遣わせて欲しい、ということを首尾言っていますが歴史的にはこれを「征韓論」として捉えてしまっているようです)、大久保が言う「いつもの癖(何もかも嫌になって投げ出してしまう癖)」から参議を辞し、薩摩に帰ります。桐野利秋らは西郷の辞職を知るや、自らも官職を辞し西郷を追って薩摩へと戻ります。主軸としてはこれに関して描かれ、傍流として間断なく川路利良のポリス観が現れます。
この川路利良に関する記述で現れるのが、フランスにおいて近代的警察制度を作り上げたジョセフ・フーシェへの傾倒に関してです。この3巻において面白い記述があったので引用してみます。
川路はフーシェをフランス革命の志士と見、さらにはナポレオンの内治行政のよき協力者としてみている。たしかにナポレオン政権が維持されるためには、強力な政治警察が必要であった。フーシェはナポレオンの警察大臣になり、反政府主義者の動態を綿密にしらべ、ついには他の官僚の私行のいっさいをしらべあげ、昨夜、誰がどの侯爵夫人と寝室を共にしたかということまで知っていた。政治家のたれもがフーシェによって弱みを握られているためにフーシェをやっつけることができず、また反政府主義者のすべてがフーシェの目からのがれることはできないという密偵網をもっていたために、ナポレオンはこの便利な男を使ってゆくしか仕方がなかった。フーシェにとってかれの魔術的な政治警察はその保身のためにもなったが、しかしかれがこの組織を創造し、この組織を秘密の情婦を愛するように磨きぬいたのは、修道僧あがりのかれの陰湿な性格と無縁でなく、保身をつきぬけて悦楽であった気配さえある。
この一文を読んだときに思ったのが、FBI 初代長官のジョン・エドガー・フーバーのことでした。
2005年07月17日
勝海舟墓
勝海舟の墓参りに行って来ました。
勝海舟の墓は洗足池公園の中にあり、現在は大田区文化財となっています。勝海舟の墓と言いましたが、ここには正妻であるたみの墓も並んでいます。この連墓にもいわくがあり、たみは生前青山墓地に長男と一緒に埋葬されることを望んでいたそうです。くわしい話は諸所で見ていただくとして、ここでは言及しません。
また隣には勝海舟が西郷隆盛の死を悼んで立てた西郷隆盛留魂碑もあります。現在読んでいる「翔ぶが如く」は第3巻の始まり。まだ明治6年。時代は征韓論に関する廟議が行われています。
現地の写真をとってきましたが、なにぶん梅雨中の日本。曇天での撮影です。ほんと、日本のこの白い空には気分が晴れませんね。
この洗足公園と勝海舟夫妻の墓、西郷隆盛留魂碑と見てきましたが、非常に感心したことの一つに掃除が行き届いていることがあげられます。こういったところに現地のかたがたの心配りが現れているような気分になりました。
話は跳んで洗足池駅の隣にあうラーメン屋さんで昼食をとったんですが、普通のラーメンが一杯500円。豚骨ベースのラーメンで非常においしかったです。500円でこの味は久しぶりでした。近所にあったら通ってると思います(笑)
2005年07月09日
翔ぶが如く(2)
読み進めてますが、まだ2巻の最初の方です。
状況としては明治4年(6年かな?)、西郷が遣韓大使として訪韓する意思にあり、三条実美は天皇からの勅許を得、岩倉具視らの海外視察団の帰国を待ち「熟考」してから事にあたる意思にある(これは他者からの入れ知恵らしい)場面です。記述は海外遊学者に関して続き、山県有朋をして「明治の実務者」的な雰囲気を匂わせています。
特に山県有朋に関する記述が占め、「人民のための国家」(国民政府:パリコミューンなどを模す国民国家)と「天皇を中心とする国家」(専制国家:ロシア帝政を模す専制君主国家)に関して海外視察団の視点をもって描かれています。山県有朋に至っては国民国家に対する恐れを匂わせ、専制君主国家足らねばならぬ、と考えていると説きます。
私は日本史をこういった海外史とあわせて考えたことがないのですが(日本史はとってませんでした)、明治政府ができた前後は、ヨーロッパではナポレオン3世やロペスピエール、鉄人宰相ビスマルクら活躍した時代、北米においてはイギリスに対する独立戦争がおこり、西郷などはワシントンを敬愛している、との記述が目立ちます。
2005年07月03日
2005年06月20日
司馬遼太郎の小説のかたち
やっとのことで読み終わりました。実際、読み終わったのは土曜日(6/18)で、その後すぐに竜馬がゆくの ビデオ と勝海舟の ビデオ を借りて見ました(これは失敗でしたが…)。
読んでいるうちから感じていたことに「思ったことはその場で記録しておいた方がよい」というものがあります。丁度最初、「竜馬がゆく」に関して ここ に書いたのは、司馬さんの小説に感じた違和感についてでした。最低限これを書いていることで救われています。というのは私はもう既に小説司馬節が苦も無く読めるようになってしまっています。こうゆう小説のかたちもあるんだな、とカテゴライズが終了してしまっているのです。
日本には自分の経験を題材にして小説を書く「私小説」というかたちがありますが、司馬さんの場合には小説は小説として存在するものの、その中に取材にいったときの自分やその土地の話、触れ合った人々の話が注釈・補足というかたちで本文中にあらわれます。これは普通、一般には巻末のあとがき等でまとめられるべきもので本文中にはあらわれるものではありません。しかし司馬遼太郎の小説にはそれが惜しげもなくちりばめられてるのです。
司馬さんの小説(長編の方です)は歴史をおって読み進めていこうと思っているので、次は「翔ぶが如く」、そして「坂の上の雲」ですね。「翔ぶが如く」では今回感じた、読んでいる途中で感じたことなどはそのまま記録していこうと思います。
さて、ビデオの方はというと、これだけの長編を数時間の作品にまとめるという方が度台、難しいのでしょうね。「勝海舟」の方はまだ見れましたがやはり原作を読んでしまうとビデオの方はきついんかな、、、と思います。いずれ勝海舟に関する小説も読んでみたいと思います。
2005年06月12日
竜馬がゆく
「お~い!竜馬」からの流れで「竜馬がゆく」を読んでいます。
司馬遼太郎さんは、以前「この国のかたち」を読んで以来です。と言ってもたいして読み続けもせず、文庫で2冊くらいしか読んでいません。あまり「文春文庫」というのが肌に合わない部分があり、ひとつに文字がでかい。そして、司馬さんの文体を読みなれていない、というのもありました。
司馬さんを読もうと思ったきっかけは「知ってるつもり!?」で紹介されていたときですから、もう6年前(いや、まだ6年か…)です。
今回「竜馬がゆく」を読んでいても当時感じた「司馬遼太郎の文体」に対するかわらぬ違和感を感じます(まぁ文はそこで変わらないわけですし、自分も変わってないということでしょうか)。この本は小説なのですが、今までに読んできた小説の体から外れていると感じます。突然、注釈や作者の横話が入ってきます。これは氏自身が元新聞記者だったという経験から来るものなのでしょうか。そんなわけで違和感を感じながらも「竜馬がゆく」の世界を堪能しています。
しかしおかしなもので、巻も3つを数える頃にはこの文体に慣れてきたせいか、この司馬節を非常に心地よく感じています。ひとつ難を言えば、ひらがなが多いこと。意図的になのか、こうひらがなをちりばめる理由がわかりません。1998年に新装版となったようですが、原書で読んでみたいと思っています。
2005年06月11日
明日の王様
「タイガー&ドラゴン」の流れで気にかけるマンガがあります。それが「明日の王様」です。
5,6巻が2冊ずつあるのはご愛嬌だと思ってください。買ってないと思って重複してしまう単行本は本当に減りません。。。。
連載当時「Young You」を買っていましたが、それはかつての「パソ通」時代の OFF 会で「Papa told me」を教えてもらってからの縁でした。これに関してはまた別の機会に。で、「明日の王様」ですが、スジとしては脚本の才能のあるヒロインを中心とした物語です。当時(1997~2001)は俄かに脚本家が脚光を浴びた時代であり、その筆頭はこの blog でも目の離せない「宮藤官九郎」と言えますでしょうか、今に至っての結果論ですが。
当の私も彼の出世作である「池袋ウエストゲートパーク」をリアルタイムで見たわけでもなく、「宮藤官九郎」という脚本家を名前で意識したのは「木更津キャッツアイ」からです。ここに至って思い返したのが、脚本家がヒロインである「明日の王様」でした。
このマンガには「数馬倫」という脚本家兼役者というキャラクターがいますが、「宮藤官九郎」を知ってからはこのキャラクターのモチーフはクドカンだろうなと思っていました。・・・残念ながら今 google で検索したら「数馬倫」「宮藤官九郎」では全くヒットしませんね(笑)。しかも「数馬倫」では3件だけです。イヤハヤ(笑)。この「明日の王様」はドラマ化してもいい感じになるだろうなーっと思ってるだけにこの結果は残念ですね。
この手のマンガ原作でドラマ化したといって思い出すのは「天才ファミリーカンパニー」、「農家の嫁になりたい」等、「二ノ宮知子」マンガです。二ノ宮マンガに関してはまたの機会にっ。
2005年05月31日
お~い!竜馬
コンビニで立ち読みをしてしまい、誘惑に勝てずに買ってしまいました。書店で大人買い。最近は古本屋でももうなかなか揃ってないようですね。近所の数軒に電話してみましたがあっても一冊程度。オークションサイトも見てみましたが「今読みたい!」という要求には勝てないものです。買ったのは手に入りやすい文庫版です。
最初に読んだのは連載中だったんでもう何年振りでしょうか。こうやって久しぶりに読むマンガは最初に読んだときとはまた違った趣があります。もちろん自分が変わっているという点において感じ方・感想が変わるという意味です。作品自体は一切変わってないわけですから。こういった感覚は風の谷のナウシカを読み直したときにも感じたなぁ…。
人間の記憶は揮発性メモリみたいなもので、リフレッシュしていなけれ薄れていってしまうようです。ですから一度読んだものでも再度読むことができます。読み直してみるとよく覚えている部分やまったく覚えていない部分が顕著にわかり、これはその当時どの部分に力点をおいて読んでいたかが思い出され非常に楽しい経験であるかと思います。
さて、今後読み返すとしたらなんだろうな。実家の部屋の整理をしたい…。もう何年してないんだか。