2005年09月13日
翔ぶが如く(5)
ついに折り返し地点の5巻です。4巻の続きで「台湾派兵」~「明治八年・東京(原題とかぶりますが)」までです。5巻は2部構成と捉えてもいいですね。前半が台湾派兵における大久保利通の外交、後半が宮崎八郎という壮士(とでもいいましょうか)についてです。この巻では西郷は現れることはありません。
前半は実務家としての大久保利通の姿が対清外交をとおして色濃く描かれています。また、大久保の政治的姿勢をあらわしている文に以下があります。
大久保は自分をして渡清大使たらしめよという運動を、三条、岩倉に対しておこなっていたが、かんじんの陸軍に対しては超然としている。陸軍省の長州系軍人が、陸軍卿山県有朋以下、大いに反対していたが、大久保はほとんど黙殺にちかい態度をとっていた。これは、かつての長州藩の政治形態も同様で
文官の優位がこれほど確立していた時期はなく、大久保は軍人などがいかに反対しても最終的には廟議の命ずるままに軍人は動くものと確信していた。(p50)
木戸はにあらわれています。このことは同じ幕末を生きてきた大久保と木戸という二人の政治家の共通姿勢となっていますが、大久保はプロシア的宰相専制主義者、木戸はフランス的民権主義者といえ、数少ない共通項なのかもしれません。
「軍の代表者は政治の場に入れてはいけない」
という、政治優位の持論をもち、軍はあくまでも政治の命ずるがままに進退すべきだとしていた。この思想はかれが指導した幕末の長州藩の政治形態そのものであり、当時の長州藩にあっては、参議にあたる政務役の会議が最高機関で、奇兵隊や諸隊はそれに対してはるかに下位に立ち、政治の命ずるがままに手足になってうごくということになっていた。
木戸はつねに、武権を持つものが政治に参加すれば全体がかならず武権の意思に引きずられる、と言い、このことはことあるごとに主張してきた。(p35)
後半の宮崎八郎はこの前半とは対を成し、志願兵として台湾にあります。この頃の宮崎八郎の活動は忙しく
八郎が明治七年、東京を風のように去ったのは、江藤新平の佐賀ノ乱に合流するためであった。熊本で同志を集めているうちに佐賀は鎮圧されてしまい、機会をうしなった。そのうち政府が台湾へ兵を出すというので志願兵として従軍し、帰国して植木学校を創め、それも同志にまかせきりにして上京した。にあらわれています。
(中略)
おれの頭と魂に、ここ二年のあいだ、ヨーロッパの百年が一時に入ってきた。火であぶるようにおれの魂を焦がしつづけている。台湾出兵に加わったときはおれは英国の帝国主義を欲した、帰国して自由と権利を知り、英国のミルに想いを傾けた、やがてルソーの存在を知り、さらにこのたび上京して中江篤介(兆民)を知るにおよんで、ルソーの徒になった(後略)(p355-356)
ちょうど読み終わる頃に漠然と思ったことに「九州男児」という言葉があります。これは主に薩摩男児を表している言葉だと思いました。当時の薩摩では少年の頃から「ギ(議)を言うな」という教育を激しく受けるようです。また同時に「お先師に従え」という教育を受けます。日常においては勇武と廉潔と爽快という精神を理想として教育を受け、弱いものいじめや卑怯を最も忌み嫌います。
同じ九州ながら肥後では総体的に思想を好むだけでなく、小さな違いを譲らずにそのことを囂々(ごうごう)と論ずることを好み、それによって党派を立てて相屹立する土地柄だったようです。これによって幕末においては藩論が固まらず、薩長に遅れをとることになります。
同じ九州ですが「九州男児」ときいて思うのは、明らかに薩摩の気風のほうです。
2005年09月02日
DEATH NOTE Vol.8
8巻が出ていました。Jump は読んでいないので単行本派なのですが、L 亡き後のニア、メロ編の続きです。(以下、ネタバレ)
7 巻の後半から始まっていますが、これはなんかもうよくないですね。ライトが全然冴えていません。ライトはキラであり警視庁代表、ニアは FBI 代表、メロはギャング代表とでもいうべきそれぞれの立場なのですが、ライト、ニアはメロに翻弄されまくりです。
世に天才といわれる人が登場するマンガは多数あると思いますが、私が思い出すそれは、一番に「BANANA FISH」です。L はアッシュとちょっとは比べてもいいかなと思いましたが、ライトはダメですね。。。力が強すぎるためにセーブさせられている感じです。この辺はバランスのとり方が難しいですね。
さて、こうやってよくマンガや小説などを題材にリンク先を探すのですが、大抵出版社の方にはないんですよね。。これって契約上、仕方ないようになっているんでしょうか?販売サイトばかりが検索にかかります。出版社の方で情報を蓄積してくれると(リンクや紹介の際に)非常に助かるのですが、これって通販サイトとか Wiki 系にまかせるしかないんでしょうかね。この辺をビジネスにするといいかもとかって思ってしまいました。でも一番近いところにいるのは Wiki よりも Google なのかな(なんとなしに)。
2005年08月30日
翔ぶが如く(4)
「半島を出よ」に割り込まれていたために頓挫していた「翔ぶが如く」の続きを読み始めました。4巻は「佐賀ノ乱」~「台湾派兵(とでも言うんでしょうか)」まで描かれています。両方とも馴染みが薄く、歴史の授業では聞いたことがなかったものだと思います。といっても日本史は選択したことが無かったので、小中の歴史で習ったかもしれませんが全く記憶に無いですね…。
この4巻はあまり記憶に残る部分が無かったのですが、メモ程度に残していた部分を何点か。…と思って読み返していたらありました。この巻では「島津斉彬」に関してとても惹かれたんですよ。調べてみようと思っていたのを思い出し、いつもの如くWiki先生に訊いてみると…期待していたものとは違った情報が得られました!「スローダンス」で先々週?くらいに重要なアイテムになっていた「薩摩切子」です。
薩摩切子(さつまきりこ)は、薩摩藩が幕末から明治初頭にかけて生産した、ガラス・ガラス細工。薩摩ガラス。知らないところでいろいろと繋がっているものですねぇ(Wikiに感謝)。こうゆうときはいつも「ぼく地球」の「同調連鎖」という言葉を思い出してしまいます。最近では「Stand Alone Complex」と言った方がいいかもしれませんが、ちょっと冷たい感じがするのでこれは微妙にしておきます。江戸の職人を招くなどして、島津斉興によって始められ、島津斉彬が集成館事業として拡大。
島津斉彬死後の事業縮小や薩英戦争での被害を受けるほどして、途絶えた。 その為、現存するものは少なく、骨董として高価で取引される。
現在販売されているものは、1985年(昭和60)年代前後に復元されたもの。
江戸切子との違い・特徴は、厚い色被せの層とカットグラス技法(切子)による、ぼかし。この厚い色被せの層のために、カット工程においてガラスを通してグラインダーを目視確認できず、目視せずともカットできる高度な技能を要する。
「島津斉彬」に関しては専門のサイトをいろいろと回ってみようと思います。
あとはところどころに出てくる、後の昭和軍閥の体質となる「統帥権」に関する記述です。
ただし、各県の士族からみれば、大久保利通といえども、
--かれもまた一人の鹿児島県士族にすぎないではないか。
という胎があった。大久保はそれをよく知っていた。このため、しきりに天朝という存在を、大久保はもちだした。佐賀の反徒は天朝に刃向かう者であり、政府軍は天朝の忠勇なる兵であるという気分を作りだす以外に、大久保の統帥が可能ではない。この大久保の統帥のやり方を後年、山県有朋が継承し、やがてその統帥の政治哲学が病的なものになって昭和軍閥にひきつがれる。P74
ただ明治憲法において奇妙な一項が入った。天皇が陸海軍を統帥するというもので、これによって成立した統帥権が、昭和史を暗澹たるものにするのだが、西郷従道の場合、統帥権をいう言葉はなかったにせよ、その発動ということにおいては酷似している。P300
この種の奇術的な軍隊使用のやりかたは、のちに体質的なものとして日本国家にあらわれる。明治期の二十年代以後では立憲国家の運営に比較的忠実だったが、昭和期に入って遺伝的症状が露骨にあらわれた。陸軍参謀本部は統帥権という奇妙なものを常時「勅命」として保有し、軍隊使用は内閣と相談せずにできるよいう妄断をもってたとえば満州事変をおこし、日華事変をおこし、かたわらノモンハン事変をおこしてそのつど内閣に事後承認させ、ついには太平洋戦争をおこす道をひらいて国家を敗亡させた。大久保と西郷従道、それに大隈重信の三人が、三人きりで合作したこの官製倭寇は、それらの先例をひらいたものであろう。P320~P321
気にとめていただけでもこれだけ繰り返されています。きっとこれ以外にも言及があることでしょう。そしてこの巻以降でもあらわれてくることでしょう。日本人はこの手の「錦の御旗」のような権威に屈しやすいように感じます。そこにどうにもならない「権威」があり、従わざるを得ないような気分になる精神構造があるのかもしれません。「出る杭は打たれる」や「長いものには巻かれろ」といった諺に、平素ではそれと知られないように日本人気質を生むべき源流が流れているのかもしれません。
といって、日本人に歴史上の人物で誰が好きかという質問に対しては「織田信長」や「羽柴秀吉」、「坂本竜馬」といった答えが返ってくるのは面白い傾向だと思います。これは平均的日本人からは乖離している特異な日本人であったと言わざるを得ないでしょうし、こういった人たちに対する憧れがある(即ち自分とはまったく違う)ということを暗に示しているものだと思います。
最後に西郷に関して。
西郷が庄内藩士に語った言葉に、
「才芸のある人間を長官にすえたりすればかならず国家をくつがえす」
というのがある。このことも、右の古傷から出たかれの政治哲学に相違ない。
右の言葉は、西郷がわかいころ、水戸の藤田東湖からきいた、という。西郷が記憶している東湖のことばは、
--小人ほど才芸があって便利なものである。これは用いなければならない。しかしながら長官に据え、重職を授けると必ず邦家を覆す。であるから決して上に立ててはいけないものである。
ということである。西郷は、この藤田東湖のことばも好きだったであろう。
この西郷の座談は、その前に小人論がついてくる。
「人材を採用するのに、君子と小人の区別をきびしくしすぎるとかえって害をひきおこす。そのわけは、世上一般に十人のうち七、八人は小人だからである。であるからよく小人の情を察し、その長所を取り、これを小職につけ、その技芸をつくさしめねばならぬ」P139~P140
2005年08月11日
半島を出よ(5)
この小説を読み始めるにあたって、先入観として存在していたのはニュースステーションで紹介されていた、程度のことでした。細かな内容は忘れましたが、それは福岡ドームが北朝鮮の兵士によって占拠されるという内容だったと思います。実際に上巻を読み始め、まず違和感を覚えたのがプロローグ2での「半島を出よ」という作戦の目的です。これに関しては、読み終わった今となっては実際“どうでもよかった”といった程度の感想しかありません。これはキッカケでしかなく、重要なのはこの小説で描かれている日本についてだと思ったからです。
外圧という言葉がありますが、日本は結局、外圧がなければ変化しづらいのかもしれません。福岡ドームが北朝鮮に占拠されようが、中国に占拠されようが、ロシアに占拠されようが、アメリカに占拠されようが、今の日本は結局は同じなんだろうな、と思ったわけです。これはいわゆる「文化の逆輸入」といった現象にも現れていると思います。元々日本のサブカルであったものが海外で評価され、それを受けて国内でもやっと再評価を受けるような。世界が日本ひとつであった場合には緩やかな死を待つだけだったものが。
うすうすとは感じていたことですが、「半島を出よ」に近いメッセージ性を持った作品としては「ぼくらの7日間戦争」「バトルロワイアル」があげられると思います。全くカンタンにまとめてしまうと、クソッたれな大人に対して…、的なものです。そういった意味では戦争やテロや独立といった作品を引き合いに出すのではなく、「ライ麦畑でつかまえて」などを作品の引き合いに出すべきでした。これは実際、最後まで読み終わったために感じることができた感想ではありますが。こういった作品を書いた村上龍が「13歳のハローワーク」を書いていることは最早必然だったと思われます。
私が高校生の頃に小論文を教えてくれた現国の先生がいました。何回か添削をして貰っていろいろと意見を訊いていたことがありますが、今でも覚えているのは「act することが大切だ」というフレーズです。それ以外のことはほとんど覚えていません。前回 引用したヒノのセリフにしてもそうですし、Jobs のスピーチにしてもそうです。
"Stay hungry, stay foolish." -- Steven Paul Jobs
自分の感想がまとまったとは言い切れませんが、そろそろ人の感想を見に web をまわってみることにします。自分の感想をある程度留めておかないと影響されちゃいますのでっ。
2005年08月10日
半島を出よ(4)
下巻を読み終わりました。最終章で「愛と幻想のファシズム」のあるシーンで感じた、懐かしい感覚がよみがえりました(そのときの衝撃ほどではありませんが)。それは、スズハラやアイダたちが会議を行っている一室。会議も終盤に差し掛かり、メイド(といっても高齢の女性だったと思いますが)が会議室の空気を入れ替えるためにカーテンと窓を開けるシーンです。その詳細は忘れてしまっていますがそのシーンだけは記憶から離れていません。
下巻で印象に残ったシーンを、少し冗長ですが何点か。
NHK本局は、なぜ福岡の人びとの今の気持ちを確かめようとするのだろうか。十二万人の後続部隊がついにこっちに向かったのだ。すべての市民が不安と恐怖を感じているに決まっている。それなのに、不安で胸がいっぱいです、という町の声を紹介したがるのはなぜだろう。黒田は、高麗遠征軍が来るまでテレビにそういう違和感を持ったことはなかった。サヨナラホームランを打った選手に今の気持ちを聞かせてくださいとマイクを向けるアナウンサーがいても、気にならなかった。サヨナラホームランを打ったのだからうれしいに決まっているのにどうしてそんな質問をするのだろう、と考えたこともなかった。大多数の視聴者は、ニュースで事実を知りたいとは思っていない。単に安心したいのだ。不安で夜も眠れません、震える声で福岡市民がそう訴えるのを見て、かわいそうだよねと言いながら、安心感を得たいのだ。そしてテレビはその期待に応えようとする。だがヨシダは、こちらは普段と変わったところがありませんと言って期待を裏切った。街の人びとへのインタビューもなかった。(p187)※1
だが、そういう夢はどこか歪んでいるような気がした。やはりここは破壊されるべきだと、必ず最後にはそう思った。正面の半円形のガラスの壁にカフェ・ラグナグというネオンが下がっている。架空の南国の島の名前で、楽園を象徴しているらしい。ここは熱帯を模倣し、その気分を味わう空間だ。熱帯をなぞっているのだ。シノハラのビバリウムはここよりはるかに小さいが、熱帯を再現しようとしていて、なぞろうとはしていない。シノハラのビバリウムはヤドクガエルの生育環境を最優先に作られているが、ここは違う。福岡に来る前に出会った連中はみんな何かをなぞっていた。暖かな家庭とか善良な人間とか幸福な人生とかそれぞれにモデルがあって、みんなそれを模倣し、なぞっているだけだった。(p319)※2
こういうことなんだな。切取線を描き終え電動ハンドカッターのスイッチを入れて、ブレードを化粧板に近づけながら、ヒノはそう呟いた。自分を含めて、イシハラのところに身を寄せた連中は、大人の指示に従わず、頭がおかしいと大人たちに言われ続け、決して許されない犯罪を犯そうとしたり、実際に犯した者ばかりだ。更正しろと言われ続けてきたが、更正という言葉の意味さえ誰も知らない。
教師や施設の職員やその他の大人たちはヒノに、人の命は何よりも尊いのだとクソのような言いぐさを呪文のように繰り返すだけだった。イラクやアフガニスタンやシリアの内乱では毎日大勢の人が死んでいて、スーダンやエチオピアの紛争では数十万人の子どもが餓死したそうだ。だが教師や施設の職員やその他の大人たちにとって、そういった現実は命の尊さとは無関係らしい。自分たちの周りにある命だけが尊いのだ。そういった腐った大人たちから正しく生きろと言われても子どもは何のことかわからない。もちろん素直に従う子どももいる。だがそいつらは大人が正しいのだと自分で判断して従うわけではない。大人に従えば利益があって、従うのを拒否すると罰が与えられるのを知っていて、それから逃れているだけだ。大事なのは、今のヒノやタケグチみたいに、やらなければならない何かを見つけることだ。何もすることがなければ、腐ったものを見続け、腐った大人たちの言うことを聞きつづけることになり、そしていつの日か大人に従い指示通りに生きたところで何の興奮もなく、楽しくもなかったということに気づき、ネットで仲間を募集して自殺するか、ホームレスになるか、あるいはあきらめて大人の奴隷になってこき使われて、それで一生を終わることになる。(p374-375)※3
リアルな現実というのは面倒くさくやっかいなものだ。戦後日本はアメリカの庇護に頼ることによってそういった現実と向かい合うことを避けてきた。そういう国はひたすら現実をなぞり、社会や文化が洗練されていくが、やがてダイナミズムを失って衰退に向かう。(中略)あいつらが福岡と九州に居座れば、東京もリアルな現実と向き合わざるを得なくなっただろう。(p479-480)※4
※1 青空文庫より、鼻
――人間の心には互に矛盾(むじゅん)した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥(おとしい)れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。
※2 天空の城ラピュタより
今は、ラピュタが何故滅びたのかあたしよくわかる。ゴンドワの谷の詩にあるもの。土に根をおろし、風と共に行きよう。種と共に冬を越え、鳥と共に春を唄おう。どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんのかわいそうなロボットを操っても、土からはなれては生きられないのよ。
※3 PLANet blog.より スティーブ・ジョブスのスピーチ
アップルをクビになっていなかったらこうした事は何ひとつ起こらなかった、私にはそう断言できます。そりゃひどい味の薬でしたよ。でも患者にはそれが必要なんだろうね。人生には時としてレンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こるものなのです。だけど、信念を放り投げちゃいけない。私が挫けずにやってこれたのはただ一つ、自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。それは仕事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを占めていくだろうけど自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ一つ、自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかない。そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ一つ、好きなことを仕事にすることなんですね。まだ見つかってないなら探し続ければいい。落ち着いてしまっちゃ駄目です。心の問題と一緒でそういうのは見つかるとすぐピンとくるものだし、素晴らしい恋愛と同じで年を重ねるごとにどんどんどんどん良くなっていく。だから探し続けること。落ち着いてしまってはいけない。
※4 劇場版パトレイバー2より
後藤: 荒川さん、あんたの話、面白かったよ。欺瞞に満ちた平和と、真実としての戦争。だがあんたの言うとおり、この街の平和がニセモノだとするなら、やつが作り出した戦争もまた、ニセモノに過ぎない。この街はね、リアルな戦争には狭すぎる。 荒川: ふっふっふ。戦争はいつだって非現実的なもんさ。戦争が現実的であったことなど、ただの一度もありゃしないよ。
柘植: ここからだと、あの街が蜃気楼のようにみえる。そう思わないかね。 南雲: たとえ幻であろうと、あの街ではそれを現実として生きる人びとがいる。それともあなたにはその人たちも幻に見えるの。 柘植: 3年前、この街に戻ってから俺もその幻の中で生きてきた。そしてそれが幻であることを知らせようとしたが、結局最初の砲声が轟くまで誰も気づきはしなかった。いや、もしかしたら今も…。 南雲: 今こうしてあなたの前に立っている私は、幻ではないわ。
長すぎますね。。自分でもちゃんとまとまりません。
2005年08月03日
半島を出よ(3)
上巻を読み終わりました。結構引き込まれますね。中盤から加速度がついていき、勢いで上巻を読み終わってしまったという感じです。
興味深く読んでいたのですが、まず気になった点。記者会見において横川と言う新聞記者が高麗遠征軍に対して質問するのですが(上巻p267)、
横川が、政治的危険分子と重犯罪人の逮捕ということですが、その法的な根拠はどこにあるんですか、と質問した。って、これ普通、誰でも気になることを質問しただけのような気が…。また、ここでも 最初に書いた 「目的が適当すぎ…。」に絡むのですが、この福岡統治の原案は(北朝鮮の指導部ではなく)この高麗遠征軍の将校が考えています。これは(上巻p256)、
「つまりですね。どの国の法律が適用されるのかということですが」
チェ・スリョン中尉とハン・スンジン司令官が顔を見合わせている。横川という記者は油断できないと気づいたようだ。
ハン・スンジン司令官は、人間性によってわたしたちは必ず共存しうるのです、と短く演説を締めて、パク・ミョンを呼び、共存統治基本計画書を配るように命じた。パク・ミョンが徹夜で取り組み、この会見の四十分前に書き上げた基本計画書だった。でわかります。本来ならこういった計画書は事前に用意しておくべきものです。徹夜とか四時間前とか、ここでは一夜漬け的な雰囲気が前面に出ています。
と、ここまで上巻を確認しながらつらつらとまとめていたのですが、これってよく考えると明治初期に日本で起こった征韓論争の北朝鮮版ですね。明治初期は維新を成し遂げた薩摩藩士達がまだまだ血気盛んであり、しかし政府は士農工商の身分制度を廃止して維新の立役者であった武士達をお役御免としてしまいました。これに憤った武士たちの死地(武士の本懐は如何にして死すか、というような意味です)を西郷は見出そうとして、結果的に朝鮮半島への出兵へと繋がるであろう、遣韓大使の役を得ようとします。「半島を出よ」では、保守的な強硬派の将軍に指揮されていて、将来の統一の妨げになるであろう軍の部隊を厄介払いするようにこの作戦に宛てています。
これが本当に狙いであるならば、「目的が適当すぎ…。」という私の感想は浅慮だったのかもしれません。北朝鮮にとってみればお荷物の厄介払いができて、大体の方針は決めておくが詳細な方法はそのお荷物に考えさせて、現地に着いたら本国からの補給は全くないため現地でうまく調達させて、等等。
どっちもどっちということで「ウィンダリア-童話めいた戦史」を思い出しました。主題とかそういうのではなくて、国家間の状況に関してです。これは15年以上前ですね、読んだのは。すっかり忘れてますが、いいリンクが見つからないので記憶で書くと。大国だけどグダグダの国家(A)と、小国だけど血気盛んな国家(B)がありました。戦争になるのですが、(A)は数に物を言わせるが腐敗しきっていて士気はあがらずグダグダ、(B)は士気はあるのだが如何せん数では勝負にならない、といった内容だったと思います(明らかにジャンルが違うので「半島を出よ」とは繋がりませんね…)。
発散してしまったので備忘録として何点か。ストックホルム症候群に関する言及があります(p352)(「ジョビジョバ大ピンチ」や「スペーストラベラーズ」もこのネタ)。しかし、裏を返せばブロークンウィンドウズ理論で見れなくなくもないかもしれません。日本人であるのに占領軍に対して見方をする、便宜を図る、等々。状況に応じて罪悪感の価値が変わっていきます。また、上巻最終章の「大濠公園にて」の描写ですが、秀逸です。ここを読むスピードはマッハでした。
2005年08月02日
半島を出よ(2)
福岡ドームは高麗遠征軍に占拠され、福岡は高麗遠征軍と共に日本から独立すると言う発表を記者会見で行います。この発表は政府を動揺させ、厳密にはまだ動揺のみを起こさせている部分までしか読んでいません。敵性判断をするとも友好判断をするともなく会議は空転(というか停滞)しています。
占拠・独立ネタとしてはなつかしの「沈黙の艦隊」が思い出されます。これは海自のある部隊(だったかな?)が日米合同で作った最新鋭原潜を占拠し「独立国家やまと」として日本から独立を宣言する部分から話が展開します(もう10年以上前に読んだ記憶だけですので詳細は間違ってるかもしれません。そういえば当時、深夜放送で「独立国家やまと」に関する討論番組をやってましたね。枡添要一さんが出ていた記憶だけあります)。
「半島を出よ」と「沈黙の艦隊」を比べた場合、心情的には「沈黙の艦隊」の方が痛快ではあります。これは日本の国土が占拠されたわけではないという、そのもの心情的な理由です。現実的な問題として考えた場合、単に構成員が全て日本人であるという理由で「独立国家やまと」の方が「高麗遠征軍によって独立した福岡」より平和的であるかと言うことは議論はできません。「独立国家やまと」は原子力潜水艦であり、核武装をしているかもしれないという懸念材料があります。また、こういった独立行為を日本人が行ってしまったという当事者としての問題意識もあります。
日本人によるクーデターと言う意味では「亡国のイージス」も同様な話でありそうです。久々に 梅田さん とこを見たら 面白いエントリー がありました。ここで紹介されていた michikaifuさん の、このエントリー です。ちょっと引用すると、
ストーリーの中で今でも一つだけ納得のいかない部分がある。私は原作の小説も読んでいるが、その原作からも引きずっている弱み、それは、テロリストと組んで反乱を起こす副艦長(小説では艦長)とその腹心の部下の「動機」である。副艦長には、「息子を日本政府に殺された」という恨みもあり、「この国は、オレたちともども、一度滅びるほうがいいんだ」といったセリフを吐き、特に小説では細かく心情の説明もあるのだが、どう説明されても、祖国を裏切り、これほどの大犯罪を起こし、自分の半生を捧げてきた信条と組織を踏みにじり、信頼してきた同僚さえもそのために殺戮するという行為の動機として、十分大きいとは私にはどうしても思えないのだ。この文を読んだときに思い出したのが「劇場版パトレイバー2」でした。
「劇場版パトレイバー2」では独立と言ったような行為は行われません。状況としては、劇中に後藤隊長が榊さんに対して言っている部分を引用します。
そりゃまあ、不平や不満はあるでしょうけど、今この国で反乱をおこさなきゃならん理由が、たとえ一部であれ、自衛隊の中であると思いますか?しかもこれだけの行動を起こしておきながら、中枢の占拠も政治的要求もなし。そんなクーデターがあるもんですか。政治的要求がでないのは、そんなものがもともと存在しないからだ。情報を中断し混乱させる。それが手段ではなく目的だったんですよ。これはクーデターを偽装したテロに過ぎない。それもある種の思想を実現するための、確信犯の犯行だ。戦争状況を作り出すこと。いや、首都を舞台に戦争という時間を演出すること。犯人の狙いはこの一点にある。犯人を探し出して逮捕する以外に、この状況を終わらせる方法はない。主人公達が警察であるため、こういった展開になっています。