2005年12月07日

翔ぶが如く(10)

ついに「翔ぶが如く」を読了です。結末は歴史が示すように薩軍の敗北で終わるのですが、最後まで薩軍は、特に桐野利秋に代表される薩摩隼人といえる中心人物たちは大きく行動原理が変わるところはありません。ただ一人、開戦前から異論を唱えていた野村忍介は薩軍の中では異彩です。

 戦略家にはまず基本として時勢眼と社会心理への洞察力があらねばならない。さらには、すきまなく情報を収集し、その価値判断と分析にあたっては、希望や期待を捨てねばならない。開戦前、忍介はみずから大阪まで行って情報を集めた。
 桐野も、桐野に乗せられてしまった西郷以下も、「政府は累卵、あすにも崩れる」という観測のみを基調にして繰りかえし送ってきた評論新聞の海老原穆(えびはらぼく)の情報のみを情報とし、情報収集というものを一度もやったことがなかった。西郷は、桐野らの用意した輿に卒然と乗ってしまたかたちだったが、そのことを、後年、勝海舟はかれは弱殿輩に体を呉れてやったのだ、と解釈した。たしかに出発前の西郷の言動にも似たようなふしがあり、そのとおりであったであろう。しかし卒然と輿に乗ったがために一万余の弱殿輩の屍を戦野に曝してしまうということを、総帥なら行動をおこす前にすこしでも予見すべきであったであろう。西郷は情報あつめや構成についての努力をまったくしなかった。
 そのことをしたのは、元陸軍大尉で当初、小隊長身分にすぎなかった野村忍介ひとりであった。
 かれは最初暴発のときに反対し、発軍した以上は従軍し、各戦局においてしばしば戦略構想を献策したが一つとして容れられず、ついに末期の段階で豊後方面軍(奇兵隊)を編成して単独軍の活動をして豊後で成功を見た。しかし主力の敗退とともに合流せざるをえなかった。(p179)

この野村忍介がどういった気分の中で動いていたかというと、

「では、自分の一隊だけで豊後へ進出する。しかしそうとなれば官軍は三田井・細島より進出して、豊後の自分と薩軍主力を遮断するだろう(現にそのとおりになった)。そうなれば薩軍の損失ではないか」
 という旨のことをいうと、桐野は一笑して、
「たとえそうなっても、かまわんではないか」
 と突き放してしまい、取りあげなかった。(p28)
 しかし皮肉にみれば、桐野は悪度胸を据えてしまっているともいえる。
 かれは若いころから徹頭徹尾格好をつけるという男で、切腑と伊達だけで生きてきた。薩摩風の伊達そのものが本質になっているところがあり、このあたり、西郷がかれを典型的な薩摩隼人としてみてしまったのもむりはなかった。
 桐野には本来責任感などはなかった。この一挙も気腑でもって大博打をやり、いくさも気腑だけで押しまくってきた。失敗すれば、ということは考えなかった。失敗したところで西郷と薩摩一万余の士族と自分が死ぬだけのことである。戦場における死はむしろ薩人が激しくそれを美とするところだから、失敗してそれに至ったところで桐野に責められるべきところはすこしもない。門川における桐野は、いさぎよくそのようにひらき直っていたのであろう。(p113~114)
といったところにあらわれています。

この野村忍介は西南戦争後は刑に服したようです。

 しかし忍介の苦しさは、西郷の才能などよりもその人格への敬慕がやみがたいことであった。かれは要するに西郷からも疎んぜられた。それでもなお、
(桐野のような馬鹿が間を阻んでいるだけだ)
 と思っていたであろうし、また桐野の無能への怒りも、忍介自身の気分のなかでは私憤のつもりではなく、桐野が西郷をぶざまなものにした、という憤りであったであろう。忍介はのち十年の懲役刑に服し、東京の市ヶ谷監獄にあるときに、西郷の命日にはかならず悼み、一周忌には獄中で祭文を草し、追悼の詩歌を詠んだ。忍介は和歌に巧みであった。一周忌の歌は、

  命ならで何を手向けんものもなし
    初は涙の時雨のみして

というものである。(p183~184)

しかしこういった野村忍介も終戦間際には西郷からは冷たくあしらわれることになります。

 西郷が薩摩風の木強者を好み、ときには偏愛し、一方では才略のある利口者を好まなかったということは、この稿でしばしば触れてきた。
 かれは、幕末の革命指導者として郷党出身の幕僚たちを使ってきたが、そういう旧幕僚たちのほとんどは新政府の大小の要人になり、才略者の代表である大久保に仕えた。黒田清隆、西郷従道、大山巌などがその代表的存在であったが、維新後の西郷の独特の厭世感は、ひとつには栄耀を得た才略者どもへの反感と嫌悪の情も一要素をなしているかと思える。
 いま、半年戦い、そして敗れたこの段階で、野村忍介への嫌悪の気持ちが露になったとすれば野村における才略者のにおいが、たまらなくいやになったのであろう。野村にすれば、いい面の皮に相違ない。(p193~194)

司馬遼太郎さんはこういった西郷を、次の様に評しています(正しくは、評することができないようです)。

 増田のいうことは要するに、自分は諸君とはちがい西郷という人間に接してしまったのだ、ああいう人間に接するればどう仕様もない、善も悪もなく西郷と死生をともにする以外にない、ということで、増田の言葉は、西郷という実像をもっとも的確に言い中てているかもしれない。
 西郷の従弟で政府軍側にいる大山巌が、西郷の死後、西郷を語り、巨目さァには諸欲は──権力欲も金銭欲もなかったが、かろうじて挙げるとすれば人望好みがあった、といったことと、わずかに符号するかもしれない。が、多くは符合しない。要するに西郷という人は、後世の者が小説をもってしても評論をもってしても把えがたい箇処があるのは、益田栄太郎のいうこういうあたりのことであろう。西郷は、西郷に会う以外にわかる方法がなく、できれば数日接してみなければその重大な部分がわからない。西郷の幕将たちの西郷に対する気持は、増田栄太郎以上のものであったに相違ない。(p218)

このようなかたちで西南戦争終結までは西郷・桐野らを中心に物語が進み、その後、大久保の死によってこの「翔ぶが如く」は完結します。一番最初に書いた「明治初期の政治のすすめ方」に関しては「書きおえて」が印象に残りました。司馬さんが友人と酒を飲んでいたときの話だそうです。その友人が

「日本の政府は結局太政官ですね。本質は太政官からすこしも変わっていません」
 と、いった。前後が何の話だったか。私はこの友人が二十年も中央官庁につとめている技官であることを忘れていた。何か、物の破壊音を伴ったようなこの言葉を聞いたとき、私はつよい衝撃をうけたが、しかし友人はそれ以上はいわず、話題を他のことに移した。(p356)
私は小さい頃から「世の中は政財官で動いている」ということ父親から言われてきましたが、官というものをこう意識したのははじめてでした。ニュースなどで「官僚の~」といったことは常々聞きますが、それが太政官からきているということに、はっとさせられました。この「書きおえて」だけは今後何度も繰りかえし読んでしまいそうな気がします。小説としての文体よりもこの「書きおえて」の文体の方が自然に自分の中に入ってきます。これも実際には 10 巻という「翔ぶが如く」を読み終えたから感じることができることなのかもしれませんが。

最後に、読んでいたときにふと思ったことを。西南戦争の終盤、西郷は別府晋介によって介錯されますが、その首を政府軍に取られないように

「どこかへ隠せ。敵にわたすな」(p301)
といことを別府は部下に言います。
 胴はそのまま打ち棄てられた。古来の部門の慣習では頭部だけがその人物の人格の象徴で、胴はぬけがらであるということのようだった。薩兵たちが棄てて駈け去った胴だけがむなしく陽の下で脇差を帯び、拳銃をたばさんでいた。この路傍の胴は、あとで政府軍の多くの士卒が目撃した。西郷は出陣の前、私学校の会議で、この体を一同に呉れてやるといったといわれるが、そのとおりになった。(p302)
この記述を読んだときに思い出したのは「もののけ姫」の中でダイダラボッチの頭が切断された光景でした。そのシーンでは頭部だけを桶の中に入れて封印しようとしていたと思います。古来、頭部というものがどれだけ重視されていたかを読み取れる共通点だと思いました。


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2005年11月23日

リアル(5)

real05.jpg

このマンガは井上雄彦さんのライフワークのようになってるんでしょうか。こんなにこころに関して読まされるマンガはありません。掲載されるペースが非常に遅いため、数年を経ているにもかかわらず刊行されている単行本数は 5 巻までで、巻末の予告では 6 巻は 2006 年秋です。

小学生や中学生の頃にはマンガの週刊誌などは毎日読み返し、一週間のうちに何度も何度も繰り返して読んでいましたが、歳を重ねるにつれてマンガなどは一度読んでしまうとなかなか読み返すことがなくなりました。しかしこのリアルは子どもだった頃の一週間のように、一年をおくるマンガになっています。

表紙のキャプチャには久しぶりにスキャナを使いましたが、デジカメで撮るのとは雲泥の差ですねぇ。パラレルポート接続なのでセカンド PC に接続してあるため、なかなか動かすことがないのですが、PC 環境も含めて部屋の模様替えなどをしたいところです。ラック類や机なども一新したい。。


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翔ぶが如く(9)

9 巻は西南戦争の中盤です。8 巻のときも書きましたが、やはり兵の動きに関しては興味が湧きません。本文中、興味深かった文章を引用すると

 奇兵隊、振武隊、正義隊、行進隊、干城隊、雷撃隊、常山隊、鵬翼隊、破竹隊の九つの隊が、かつての大隊の代わりをなす最高単位になった。壮士の剣舞を見るような小むずかしくて意味の熾(さか)んな語が撰ばれたのは、逆にいえば戦闘力という実質がうしなわれつつあるために、名称で景気をつけざるをえなくなったのであろう。
(中略)
 前記九つの大隊の総指揮は、元陸軍少将桐野利秋がとることになった。後年、薩摩の老人たちが、
「丁丑(ていちゅう)(明治十年)の戦さは、よかれ悪しかれ、桐野どんの戦さじゃった」
 といったようなこの事変における一つの本質が、いっそう露になったといえる。
 西郷は、相変わらず指揮をとる気配を見せていない。このため、旧大隊長が幕僚になったところで、そこから作戦がうまれるということは、どうやら見込み薄のようだった。軍は、桐野がほぼ握った。この事情の機微は、最初から暴発へ持ちこんだ桐野利秋の一種の責任とりとも見ていいだろう。(p276-277)
この西南戦争がどのような形で終結を見るのかには興味が湧きます。

また、この巻では宮崎八郎が戦死します。彼は 5 巻において最も華々しく描かれていた人物でした。

 この点、かれは詩的気分としては幕末のの志士たちの正統の後継者であったといえなくはない。かつての志士たちの多くは、自分の人生や生命を一篇の詩として昇華することを望んだが、人民を座標においた最初の革命家である宮崎八郎もそうであった。その望みのように、死が弾雨の中の萩原堤でするどくかれをとらえた。下腹部の毛管銃創は、致命傷であった。(p223-224)

そして日本における戦争の慣習に関しても言及があります。

 諸道の政府軍の進撃を早からしめた理由のひとつは、各地で降伏した薩軍の小部隊が、降伏するとともに政府軍の道案内をつとめ、薩軍の配置などを教えたからであった。べつに政府軍が強制したわけでなく、
「降伏したからには、官軍として働きたい」
 と、かれらが積極的に望んだからであり、その口上はさらに情緒的で「万死を冒して前罪を償いたい」というものであり、一種、奇妙というほかない。
 このことは日本古来の合戦の慣習であったであろう。降伏部隊は鉾を逆にして敵軍の一翼になるというものであり、駒を奪ればその駒を使うという日本将棋のルールに酷似している。ついでながらこの慣習はその後の明治陸軍の弱点として意識されつづけ、日露戦争のときも捕虜になった日本兵は日本軍の配置を簡単にロシア軍に教えた。(中略)この体験が、昭和以後、日本陸軍が、捕虜になることを極度にいやしめる教育をするもとになったといっていい。(p319)
司馬さんは常に第二次世界大戦における日本軍に話を持っていきますね。これも「知ってるつもり?!」の受け売りですが、司馬さんは第二次世界大戦に関する小説は書けなかったそうです。ノモンハン事件に関して資料は集め、いろいろと構想は練っていたという感じで番組は進んだと記憶しています。しかし、どういったことが原因だったかは忘れてしまいましたが「ノモンハンは書けない」という風に番組では説明されていた記憶しています。司馬さんに関する「知ってるつもり?!」の回は久々に観たくなりました。

さて、残すは 10 巻のみとなりましたが、まとめ方を興味深く読むことにします。注目して読もうと思っていた「大久保と西郷の決別」に関しては、既に大体は感じは掴めています。残りは最後、かれらの心情をどのように司馬さんが小説に仕上げたか─。


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2005年11月15日

技術で生きる!

俺が、つくる! に引き続いて、岡野雅行さん本です。この本は岡野さんともう一人、樹研工業社長の松浦元男さんとの対談パートと、この二人それぞれの独筆パートからなる 2 部構成となっています。発行が 2004 年 1 月 1 日ですので、約 2 年前の本になります。

本文中、特によかったのは、

岡野初めから実績なんてあるわけないんだよ。大企業はだいたいそういうパターンだね、実績だとかそういうへったくれで始まるんだ。だから俺は腹が立つから大企業の人間とは会わない。そういうやつらと話していると精神的に疲れるんだよ。技術者同士だったらいいんだけどな。技術者同士だったら腹を割ってね、お互いに話が進むわけよ。技術屋さんなら絶対に嘘つかないからさ。
(p20)
ですね。この辺は本当に実感としてわかります。技術に対して嘘をつくとすぐにパレてしまうからです。技術者は決してそんな下手な嘘はつきませんし、心が許しません。こういった技術者談としてはまたパトレイバーを思い出します。
だがな、どんなに技術が進んでもこれだけは変わらねぇ。機械を作るやつ、整備するやつ、使うやつ。人間の側が間違いを起こさなけりゃ機械も決して悪さぁしねぇもんだ。実山さんよ。今日は二課の整備課長がメーカの工場長に会いに来たわけじゃねぇんだ。お互い女房よりも長く機械と付き合ってきた技術屋同士、腹割ったところで聞かせてもらいてぇんだ。…おたくの HOS、ありゃぁ大丈夫なのか?
榊さんの名ゼリフですね。

その他、印象に残ったのは少子化に対する言及です。

松浦日本人の人口がこれからドンドン減るでしょう。出生率が低下しているから、三〇年後になるといまの一億二〇〇〇万人の総人口が六九〇〇万人ぐらいになるそうですね。国力の低下だとか社会保障制度の限界だとか大騒ぎしていますが、私はまったくラッキーなリストラだと思ってます。マーケットが減るなんて実は小さなことで、それよりも国がスリムになることによるメリットが大きいわけです。
岡野えらい時代になるもんだね。
松浦そうするとどうなるかというと、国自体のリストラになります。いまは景気が悪いからどうにもなりませんが、六〇歳代の連中が働けないわけがありませんから、若い人の世話にならないと生きていけないわけじゃない。その上で、食料の自給の問題にしても、エネルギーの自給の問題にしても、いろんな意味でこの国の自立が達成できると思うんです。いまはとにかく人数が多すぎます。
岡野何もかも半分で済むんだもんな。
(p180-181)
この「とにかく人数が多すぎます」というのがどういった意味なのか私にはまだよくわかりませんが、時間をかけて考えていきたいと思います。パッと思いつくのは
  • 世界の総人口に比べて、更に日本人の割合は減っていく
  • 日本の経済規模は小さくなるだろうが、歳入・歳出において改善が行われるべき
  • エネルギー、食料の自給が可能となるかもしれない
…と、どうもいま一つ、釈然としません。これはもう「自立すること」に慣れていない戦後世代だからこう感じてしまうことなのか、とか、社長という立場になると「自立する」ということに対して積極的な思考になるのかな、とか考えてしまいますね。ちょっと離れた場所から考えたほうがよさそうです。

あと、やはり全編をとおしていろいろと勉強になります。松浦さんの話は実務的な示唆に富んでいて、「ISO vs TQC」の関係(考え方の違い、差異についてなど)や「自己資本比率四五%以上、流動比率二五〇%以上、固定比率一〇〇%以下、支払手形ゼロ」といった経営上の姿勢、「松下幸之助さん、井深大さん、盛田昭夫さん」や「トヨタや日産」の話など、初めて知ったことや考えさせられることがしきりでした。

技術で生きる! ISBN:4828410929


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2005年11月07日

俺が、つくる!

久しぶりに読んでいてワクワクする本でした。口語調の文体で、こぎみよく話が進みます。それでもやはり今だからこそ読まれる本であり、本書でも語られていますがバブル期には異端視扱いされる内容だとは思います。そんな本であるためバブルに踊った企業などには「ザマミロ!」と言ってのけるだけの力があります。

本文中、新しい発見だと思ったのは

特許は大会社と連名で取るのが一番いい。開発者と申請者という立場で特許を取るんだ。
という部分。名より実を取る、というか、零細企業にとっては結果的には名と実をいい割合で取れるのがこの「連名で取る」になることが簡潔に説明されています。この辺は自然世界にもある「共生」のカタチに近いのかもしれません。特許に関しては青色発光ダイオードの例が印象に大きかっただけに、この発想の仕方には新しさを見てしまいました。

そして本文の最後ではマイクロソフトの戦略を見てるような気分になりました。

途中であきらめてしまうから本当の失敗になる。あきらめずに挑戦し続ければ最後にはできる。
これはマイクロソフト的ですね。勝つまで続ける。だから最後には勝つ、という方法。

全編を通して様々な示唆にとんだ「岡野語録」が収録されており、文字数もそんなに多くないのでマンガを読み返す程度の気楽さで読むことができます。気分が沈んでいるときや盛り上げたいときには一読する本になりそうです。特に名前がいい。「俺が、つくる!」ですよっ。

さて、この本とは別に岡野工業の取材をしていたテレビ番組を以前みたことがあったんですが、あれは何の番組だったんだろう?プロジェクト X と検索しても出てこないから、また何か別の番組だったんだろうと思いますが、まったく思い出せません。そのときは「痛くない注射針」の取材ではなくて「リチウムイオン電池ケース」の方だった気がするので随分前になるのかな…。HDD レコーダを持っていた気がするので 2,3 年以内だとは思うのですが。

俺が、つくる! ISBN:4806117609


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2005年11月06日

翔ぶが如く(8)

第八巻をひらいてまず驚いたのが章立ての多さです。「人馬」からはじまり「野の光景」で終わる 15 章の構成です。これを七巻までと比べてみると以下の様になります。便宜上、最終巻である十巻までまとめると

  • 一巻 8 章
  • 二巻 7 章
  • 三巻 10 章
  • 四巻 6 章
  • 五巻 10 章
  • 六巻 9 章
  • 七巻 7 章
  • 八巻 15 章
  • 九巻 11 章
  • 十巻 11 章
のようになります。

1 章である「人馬」には興味深い逸話として、維新前と維新後の西郷の変わりように関する記述がみられます。この変化に関して、鹿児島では病理的な原因があったのではないか、と極めて密かにではあるがささやかれているとのことです。こういった逸話はこの本を読むまでは全く知らなかったことです。遠い記憶を呼び戻して「知ってるつもり!?」での西郷の回を思い出してみても、出てくるのは「敬天愛人」という言葉だけです。が、この「翔ぶが如く」では未だに一度足りとも読んだ記憶がありませんね。いつから言われるようになったのか、それとも司馬遼太郎があえて外しているのか、最後まで読み解かないとこれに関する結論は得られません。

この「人馬」では西郷の変節ぶりが示されるのですが、それはこういった変わりかたです。

 しかし起つ以上は、戦いの方針その他について西郷はみずから案も練り、みずから発言し、進んでかれらを指導すべきであった。が、そのことはいっさいせず、さらに驚くべきことには、西南戦争の全期間を通じて西郷は一度も陣頭に立たず、一度も作戦に口出ししなかったのである。
 維新前の西郷はそうではなかった。西郷が心服しきっていた旧主島津斉彬でさえ、
 ──西郷は 悍馬のようなものだ。かれを統御できるのは、自分しかいない。
 といっていることからみても、西郷は斉彬に対し言うべきことを臆することなく言っていたに違いない。
「維新前の南州翁と維新後の南州翁は別人のような感じがする」
 という印象が、鹿児島に遣っている。
 たしかに、別人の観がある。
 (中略)
 この点、西郷はそのひらきが甚だしすぎるように思える。(p13~14)
この記述における西郷像はこの巻をとおして貫かれており、この巻の流れをも決めています。自然、西郷に関する記述は薄くなり、西南戦争の主役は陣頭に立つ各将及び兵士、そして政府側の責任者である山県有朋などの記述が多数を占めます。

西南戦争における兵の動き、軍隊の動きに関する記述は読んでいてあまり面白くはありません。これは読み手である私が文章からの場面の連想を面白く感じないからだと思います。コンピュータゲームを通して視覚的に兵の動きがリアルタイムで移り変わる様に 10 年以上もの年月で慣れてしまっているため、文章のみをとおした記述が怠惰でなりません。七巻からの巻末には地図が付加されるようになり、七巻では九州全図、八巻では熊本城から高瀬までの周辺地図が掲載されていますが、状況ごとに隊の動きを地図をもって記述してもらいたかったと思います。小林秀雄の「モーツァルト」における楽譜のように。

これとは逆に山県有朋や薩摩側の将の意識における記述には興味を惹かれます。

 山県は、軍人としては物事をこまかく指示しすぎる性格のために野戦将軍にはむかない男だったが、その構想力と緻密な運営能力と、さらには物事に賭博的な期待を持たない性格から考えて、日本ではめずらしく補給の思想と能力をもった男であったかもしれないかった。(p286)
 この時期の陸軍卿山県有朋は、一個の独裁者に似ていた。かれを独裁者たらしめている政治的条件は、長州人であることのほかは希薄なのだが、しかしその信念である徴兵制をかれが立案し、実施し、このために鎮台の実情をかれ以上に知っている者はなく、また他の者は山県ほどの実務の才をもっていなかったため、自然、山県一人が、動員から作戦、補給、さらには東京への政治的措置に至るまで、何もかもやってのけるということになった。後年、かれが陸軍と官僚界に法王的な地歩を占めるにいたる基礎は、このときにできあがった。言いかえれば、西郷のおかげで、この狭隘な理想しか持ち合わせていない卓越した実務家が、明治政府の権力者になりえたといえるであろう。(p288)
狭隘(きょうあい) : (2)心がせまいこと。度量がないこと。また、そのさま。

山県有朋に関しては私は全く知らないのですが、司馬さんのこういった記述をよく見かけます。かなり嫌われている感が読みとれます。
西郷と薩軍の作戦案は、いかなる時代のどのような国の歴史にも例がないほど、外界を自分たちに都合よく解釈する点で幼児のように無邪気で幻想的で、とうてい一人前のおとなの集まりのようではなかった。これとそっくりの思考法をとった集団は、これよりのちの歴史で──それも日本の歴史で──たった一例しかないのである。昭和期に入っての陸軍参謀本部とそれをとりまく新聞、政治家たちがそれであろう。(p81)
 薩軍本営には、継続して全般の作戦を考えている参謀職の者がいなかった。
 薩軍に存在するのは、実戦職である大隊長たちだけで、かれらが臨機に本営にあつまってきては情報を持ち寄り、合議するだけであった。西郷そのひとは本営の奥で象徴として起居しているだけで、作戦に触れることがない。(p252)
 当初、鹿児島を出るときの私学校の政略は西郷軍が東京にせまることによって満天下の不平士族(だけでなく各地の鎮台まで)が風をのぞみ、あらそって軍旅に投じ、ゆくにつれて軍勢は雪だるまのように大きくなり、ついには東京を圧倒するにいたるというものであった。(p260)
こういった意識の中、読んだときには信じられなかったのですが、西郷と桐野は後々には仲たがいのような状況に落ちていくようです。
 西郷はのちに桐野と口をきかなくなり、桐野のほうでも西郷を避けるような気配を示すようになったといわれるが、西郷の側でいえば、その感情はあるいはこのときから出発したものかもしれない。
 むろん、西郷の性格として桐野を責めたりなじったりすることはなかった。この男に乗せられてしまった自分に対する嫌悪が、西郷の桐野に対する感情を重くしたのではないかと思える。(p317)

このような両軍の陣営ですが、各巻のところどころにあらわれる大村益次郎の記述には、明治政府が失ってしまった偉大な人物であったことがひしひしと伺えます。

これは、明治元年、二年の間にすでに西郷が九州で反乱をおこすであろうということを予見した当時の兵部大輔大村益次郎の基本的な考え方であった。(p286)
大村益次郎(村田蔵六)は「お~い!竜馬」を読んだときに知った人物ですが、このマンガではとてもコミカルな絵で描かれており非常に愛着を持ちます。以前書いた斉彬を調べてみたいと思ったのと同様、大村益次郎も詳しく調べてみたい気分にさせられる人物です。

さて、その他興味を惹かれるのは銃器の移り変わりですね。スナイドル銃、ミニエー銃などがよく文中にはあわれます。これは時間があったときにでもまとめてみたいと思います。ちょっと検索した限りでは、

などがヒットしました。やはり web は便利だ…。


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2005年10月16日

翔ぶが如く(7)

第7巻はついには「会戦前夜」といった感があります。一度動き出した気運というものは、ひと一人の力ではどうすることもできないということをまざまざと見せ付けられる気分でした。現実はロジックどおりには動かずに人が動かします。しかしその人を動かすのは、熟慮よりも多分に気分の高揚である場合があります。この会戦前夜もそういった気分の中で情勢が形成されていきました。「覆水盆に帰らず」と言ってしまえば簡単ですが、あるかもしれないと仮定しつつも無いと思っていた現実が実際に起こったとき、薩摩 - 私学校が選択した、せざるを得なかったのが「決起」という道でした。

この決起に至る決定的なトリガは、私学校生徒らによる陸軍火薬局からの武器強奪に端を発します。この報に触れた桐野、篠原らの気分が以下に描かれています。

桐野がぬっと入ってくるなり、篠原国幹にいった言葉を、田中才助は記憶しているのである。
「お前さァが、弾薬を取らしゃったか」
これに対し、篠原が意外そうに、
「いやっ、俺は、お前さァのさせやったかと思うちょった」
たがいに事件はその差金かと思っていたのである。が、そうでないことがわかったとき、田中才助の記憶では、桐野は、
「もうこうなれば仕方がない」
と、長大息した。決起以外にない。決起には名目が要る。「刺客」という風説をもつ帰郷組をとらえて泥を吐かせ、それをもって政府の非を鳴らす、ということであったか。要するにすべてを動かしているのは、この異常な気分であった。(p253-p254)

また西郷は私学校本局における大評定(寄合)において、最終的には

自分は、何もいうことはない。一同がその気であればそれでよいのである。自分はこの体を差しあげますから、あとはよいようにして下され。(p282)
ということをいいます。

大久保利通と西郷隆盛という両雄が、どこでボタンを掛け違えてしまったか。結果的に衝突しなければならなくなる二人ですが、

西郷と大久保とは、政敵として袂をわかったとはいえ、年少のころから同志の契りをむすび、水火をともにくぐってきて、互いに気心も志操も知り抜いていると双方が思い、かつ双方の人格に付いての尊敬心を、どちらも失っていない。(p255)
とまで形容される二人です。

ふと思い出したことに「銀河英雄伝説」のロイエンタールの反乱があります。細かな情景としては異なりますが「自分の意志とは別の力によって揺り動かされる人生」という観点において類似性を見出してしまいます。「銀河英雄伝説」を読んだのはもう 10 年程前だと思うので詳細は忘れてしまっていますが、また読んでみたい気分になりました。


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2005年09月26日

翔ぶが如く(6)

この第六巻は、西南戦争という事態へと箍(たが)が外れるまでの微妙な力の移り変わりに関して記述されています。時間的には「明治八年六月・地方官議会」~「明治九年十月・神風連の乱」です。

この巻では興味深く読めた個所はあまりありませんでした。比べていうなら前巻が「大久保利通」と「宮崎八郎」を中心にして描かれたのに対し、この巻は人びとではなく事象に力点がおかれて描かれいるといえます。唯一あげるとするならば前原一誠となるのですが、その人に関しては作者も人物とは見ておらず、好意的には描かれていません。

さてではこまごまと知ったことを何点か。松下村塾は吉田松陰の塾だと思っていたのですが、実は叔父である玉木文之進の塾だったそうです。それを松陰が一時期借りてやっていたのだそうです。トリビアでした。あとは・・・と、これ以外をあげようとパラパラとめくって読み返してみましたがありませんね。。

この巻は表面下でくすぶっていた力が、あるキッカケで噴出するまでの胎動から勃発という力の移り変わりを記述していますが、そのくすぶりの意思があまり私にはピンと来ないという感じです。射るまでに十分に力が蓄えられた弓にも例えることができず、かといって無作為な暴発でもありません。我慢して我慢して我慢して我慢しきれなくなった悲壮さ(その割には宗教的なのですが)があり、しかし参加者全員がその信念に死するというわけでもなく、ある種、集団ヒステリーの状態であったような印象を文面から受けてしまいました。気分として池田屋事件直前に志士たちが発していたであろう高揚感は感じません。端的にあらわしている文を引用すると、

「私どもが、まず死にましょう。あなたたちはあとに続いてくれるか」(p283)
になると思います。「何をするか」においては「まず死ぬ」というのが目的となっています。


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