2006年03月12日

ウェブ進化論

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買ったのは 2 週間ほど前だったのですが「坂の上の雲」を読んでたこともあり、棚に置き去りにしてありました。しかし今日の「サンデープロジェクト」でこの本が紹介されたこともあり「いい加減読んでしまわないといけないな」と思い立ち、読みはじめました。読了するまでに 3 時間半ほどかかってしまいましたが、意外とすんなり読めたと思います。

これは著者の梅田さんの文章を「CNET Japan Blog - 梅田望夫・英語で読むITトレンド」や「My Life Between Silicon Valley and Japan」で慣れていたためだろうと思います。しかしこれらの前提知識がない人が読むと、意外とチンプンカンプンなんじゃないかな、と思います。これは前提知識の量にもよりますね。

どこで読んだか忘れてしまいましたが、この「ウェブ進化論」で書かれている内容は全てオンラインで読むことができます(本文をそのまま読める、という意味ではなく、梅田さんの考え方を彼の Blog から読み取ることができる、という意味)。しかし日本の権威に対してそれを説明するにはオフラインで──活字になってるメディアでないと駄目であり、そのためもあってこれは出版される必要があった書籍である、という内容のものです。意外とこの評は的を射ており、本として出版されたことを契機に「サンデープロジェクト」においても『インターネットの「こちら側」と「あちら側」』という、随分前から梅田さんがいってきた内容が田原さんの口をとおして語られることにもなりました。未だに日本においては書籍は立派な権威であり続けています。

しかしこの本を読んではじめて気付かされたことも多く、やはり本というメディアは重要であると思います。Blog を読むということは、勿論 Blog オーナーによって編集されたエントリを読むということですが、本になるということは専門の編集者の意見も反映されているわけです。日々更新される Blog は意外と「読み飛ばし」が発生することもあり、記事に前後の関連性が無い読みきりものにおいては意図的に読み飛ばしたのか偶然読むことができなかったのかにかかわらず、ずっと読まないでいてしまう状態も発生します。本という fixed な状態になってもらえると、「最初から最後まで」という固まった状態が維持されているため安心して読むことができます。そこには編集という作業が強く働いているわけですが、この編集という仕事は web 的にいうと Google などの検索エンジンをとおす、という意味にかさなります。

さて、それはおいておくとして、この本ではじめて気づかされたことに関して。Google が「ベスト・アンド・ブライテスト」主義の技術者集団であることは CNET での Blog を読んでいるときに認識していた Google 像ですが、この本でおもしろかったのが、ロングテール部への注目とそれを実現する技術に関してです。簡単にまとめると、

ネット世界とリアル世界のコスト構造の違いが、ロングテールに関する正反対の常識を生み出している(p111)
という部分になります。これは序章でも語られており、
放っておけば消えて失われていってしまうはずの価値、つまりわずかな金やわずかな時間の断片といった無に近いものを、無限大に限りなく近い対象から、ゼロに限りなく近いコストで集積できたら何が起こるのか。ここに、インターネットの可能性の本質がある。(p20)
と同じことをいっています。Google はそれを実現するための技術を有しており、それは人間が行うわけではなくプログラムが行います。勿論その成果は Google では広告収入にあたるでしょうし、Amazon ではネット通販の利益にあたります。

おもしろいもので、こういった考え方は日本ではマンガやアニメにおいて顕著にみることができます。それはドラゴンボールの元気玉であったり、攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG のクゼの軍資金調達方法であったりなどです。両方とも実現するためには傑出した技術が必要というあたりは、仮想・現実の世界それぞれにおいて共通しています。

さてもう一点、この本で 2 箇所しかない図の 2 個目に関してです。

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Fig.1 ウェブ進化の方向

この「不特定多数無限大への信頼」の「信頼あり」と「信頼なし」というカテゴライズは、この図が現れる以前に全編において語られていますが、ここで思ったのが暗号の話です。

暗号技術入門に以下の文があります。

暗号アルゴリズムを秘密にしてセキュリティを保とうとする行為は、一般に隠すことによるセキュリティ(security by obscurity) と呼ばれ、危険で、かつ愚かなこととみなされています。(p16)
勿論これは「情報を隠すことによる市場内での優位さ」を対象にしたい部分ですが、公開されている Google の技術 (この本では API と言われている部分) と、公開されていない Google の技術 (Google を Google たらしめている OS やデータベースに関する部分)の線引きが重要であると思います。

企業が利益を生む仕組みを全て公開することはありえませんが(特許ビジネスはまた別方向として)、情報を含めて図をちょっといじると以下の様になるかな、と思います。

web_innov02.png
Fig.2 ちょっといじったもの

ここでの基盤技術と戦略技術というのは、梅田さんの以下のエントリの概念です。

戦略技術というキーワードは残念ながらこのエントリ以降使われていませんが、これからも注目していきたい部分です。

なんというか、考えながら書いていますが、どうも考えが発散方向に進んでしまって結論がでませんね。。


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2006年03月07日

坂の上の雲(3)

この巻の冒頭、子規がその生涯を閉じます。3 巻の 9 割に子規はあらわれません。しかし時間は間断なく進ませねばならず、司馬さんはこの小説の書き方を「まだ悩んでいる」と記述します。正岡子規のこの小説で果たした役割に関しては全巻を読み終わった後でまた考えてみようと思います。

この巻ではついに日露戦争が開戦を迎えます。内容は陸海における戦闘に関するものが増えるため、必然的にそれを昭和の太平洋戦争史に結びつける部分が散見できます。日露戦争を読むと同時に作者の太平洋戦争史観を読むことができます。

 ついでながら、好古の観察には、昭和期の日本軍人が好んでいった精神力や忠誠心などといった抽象的なことはいっさい語っていない。
 すべて、客観的事実をとらえ、軍隊の物理性のみを論じている。これが、好古だけでなく、明治の日本人の共通性であり、昭和期の日本軍人が、敵国と自国の軍隊の力をはかる上で、秤にもかけられぬ忠誠心や精神力を、最初から日本が絶大であるとして大きな計算要素にしたということと、まるでちがっている。(p133,134)
 たとえていえば、太平洋戦争を指導した日本陸軍の首脳部の戦略戦術思想がそれであろう。戦術の基本である算術性をうしない、世界史上まれにみる哲学性と神秘性を多分にもたせたもので、多分というよりはむしろ、欠如している算術性の代用要素として哲学性を入れた。戦略的基盤や経済的基礎のうらづけのない「必勝の信念」の鼓吹や、「神州不滅」思想の宣伝、それに自殺戦術の賛美とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学が、軍服をきた戦争指導者たちの基礎思想のようになってしまっていた。
 この奇妙さについては、この稿の目的ではない。ただ日露戦争当時の政戦略の最高指導者群は、三十数年後のその群れとは種族までちがうかとおもわれるほどに、合理主義的計算思想から一歩も踏みはずしてはいない。これは当時の四十歳以上の日本人の普遍的教養であった朱子学が多少の役割をはたしていたともいえるかもしれない。朱子学は合理主義の立場に立ち、極度に神秘性を排する思考法をもち、それが江戸中期から明治中期までの日本人の知識人の骨髄にまでしみこんでいた。(p196,197)
 戦術の要諦は、手練手管ではない。日本人の古来の好みとして、小部隊をもって奇策縦横、大軍を翻弄撃破するといったところに戦術があるとし、そのような奇功のぬしを名将としてきた。源義経の鵯越(ひよどりごえ)の奇襲や楠木正成の千早城の篭城戦などが日本人ごのみの典型であるだろう。
(中略)
 日本の江戸時代の史学者や庶民が楠木正成や義経を好んだために、その伝統がずっとつづき、昭和時代の軍事指導者までが専門家のくせに右の素人の好みに憑かれ、日本独特のふしぎな軍事思想をつくりあげ、当人たちもそれを信奉し、ついには対米戦をやってのけたが、日露戦争のころの軍事思想はその後のそれとはまったくちがっている。戦いの期間を通じてつねに兵力不足と砲弾不足になやみ悪戦苦闘をかさねたが、それでも概念としては敵と同数もしくはそれ以上であろうとした。海軍の場合は、敵よりも数量と質において凌駕しようとし、げんに凌駕した。(p285,286)
 「秋山がああいってくれてたすかった」
 というのは、のちに軍の幕僚たちがいったところだが、欧州式でいえば騎兵旅団の機能としてそれが当然な着想なのである。ちなみに日本陸軍の首脳は、この時代における騎兵、のちの時代における捜索用戦車や飛行機といったふうな飛躍的機能をもつ要素をつねにつかいこなせないままに陸軍史を終幕させた。日本人の民族的な欠陥につながるものかもしれない。(p311)
 が、日本軍の基本思想は、そのような「陣地推進主義」ではなく、大きな意味での奇襲・強襲が常套の方法であった。拠点をすすめてゆくどころか、拠点すらろくにない。兵士の肉体をすすめてゆくのである。当然、戦術は指揮官と兵士の勇敢さに依存せざるを得ない。ときには戦術なしで、実戦者の勇敢さだけに依存するというやりかたもとる。のちの乃木軍(第三軍)の旅順攻略などはその典型であり、このほとんど体質化した個癖は昭和期になっても濃厚に遺伝し、ついには陸軍そのものの滅亡にいたる。(p315)

司馬さんが太平洋戦争に関する小説が書けなかった理由は、この傾向にあるのかな、とふと思いました。未来から過去を俯瞰するという傾向です。太平洋戦争当時と現在に関して、国の首脳部を比べる、前線の兵の心理を比べる、等々。実体験として兵士であったために小説として仕立てることができなかたのかとも思います(司馬さんに関してはまだまだ知らない部分が多すぎるのであまり踏み込んではかけませんが、知らなかったときの直感として記しておきます)。「この国のかたち」を次に読むときは新しい感覚で読むことができる気がします。

さて、この巻では薩摩的将帥の総括的な記述を読むことができます。

 人物が大きいというのは、いかにも東洋的な表現だが、明治もおわったあるとき、ある外務大臣の私的な宴席で、明治の人物論が出た。
「人間が大きいという点では、大山厳が最大だろう」
 と誰かがいうと、いやおなじ薩摩人なが西郷従道のほうが、大山の五倍も大きかった、と別のひとが言ったところ、一座のどこからも異論が出なかったという。もっともその席で、西郷隆盛を知っている人がいて、
「その従道でも、兄の隆盛にくらべると月の前の星だった」
 といったから、一座のひとびとは西郷隆盛という人物の巨大さを想像するのに、気が遠くなる思いがしたという。隆盛と従道は前記のとおり兄弟だが、大山はいとこにあたる。この血族は、なにか異様な血をわけあっていたらしい。
 この三人が、どうやら薩摩人の一典型をなしている。将帥の性格というか、そういうものがあるらしい。
 薩摩的将帥というのは、右の三人に共通しているように、おなじ方法を用いる。まず、自分の実務のいっさいをまかせるすぐれた実務家をさがす。それについては、できるだけ自分の感情と利害をおさえて選択する。あとはその実務家のやりいいようにひろい場をつくってやり、なにもかもまかせきってしまう。ただ場をつくる政略だけを担当し、もし実務家が失敗すればさっさと腹を切るという覚悟をきめこむ。かれら三人とおなじ鹿児島城下の加治屋町の出身の東郷平八郎も、そういう薩摩風のやりかたであった。(p50,51)

このとき西郷従道は海軍大臣を務めており、実務家として山本権兵衛を起用することになります。

「なにもかも思うとおりにやってください。あんたがやりにくいようなことがあれば、私が掃除に出かけます」
 と言い、権兵衛の改革が急務で八方から苦情がでたときも、西郷はその一流のやりかたで適宜に政治的処理をやってのけた。(p51)

ちょっと次巻の先読みが進んでいるため、布石的に以下の引用をしておきます。

 戦艦三笠を英国のヴィッカース社に注文したのは明治三十一年であったが、しかしこの時期すでに海軍予算は尽きてしまっており、前渡金を捻出することができず、権兵衛は苦慮した。
 このころ権兵衛は四十七歳で、海軍大臣をつとめている。
 当時、西郷は内務大臣をしていた。
(中略)
 権兵衛は万策つきた。西郷になにか智恵はないものかと訪ねると、西郷は事情をききおわってから、
「それは山本サン、買わねばいけません。だから、予算を流用するのです。むろん、違憲です。しかしもし議会に追及されて許してくれなんだら、ああたと私とふたり二重橋の前まででかけて行って腹を切りましょう。二人が死んで主力艦ができればそれで結構です」(p64,65)

これは日本的官僚主義とは真逆の位置に存在します。

最後に、私がこの巻のさわりだと感じる箇所に関して。それは日本がロシアに対して開戦を決意するに至る経緯に関してです。ページ的には 176~180 となります。日露戦争の開戦を決意するに至る部分の記述を読んだときには、太平洋戦争に至る「ハルノート」を思い出さずにはいられませんでした。そしてそれを思った次のページに、果たしてこのことが記述されていました。ここには 20 世紀に至るまで続く人種差別的要素に関する言及も含まれています。ある種、今まで読んできた司馬小説とは趣を異にしている箇所だと感じます。

毎巻思いますが、この小説は大変おもしろいです。NHK は 2008 年にスペシャル大河として放送するために現在製作を行っているとのことですが、どんな作品にしあがるのか。大変興味深いです。


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2006年02月20日

坂の上の雲(2)

1 巻と同様、軍人である秋山兄弟のパートに正岡子規のパートが差し込まれるような形で章が構成されています。軍事面の章を読み進んでいると、肩透かしをくらうように正岡子規の章に切り替わります。それまで読んでいたのは帝国主義時代の軍事的な内容なだけに、昂ぶっていた気分をいい意味で弛緩させられます。帝国主義という殺伐とした時代を描くにあたって、その時代の日本の俳句・短歌というものを織り交ぜる手法は、しかし著者が新聞記者であったという事実や正岡子規自身も新聞「日本」に籍をおく身であったということに一つの意味はあるのでしょう。

司馬さんの小説では情報を扱う必要があるために、もう一つの主流(悪い言い方をすれば傍流)が常に存在します。「竜馬がゆく」では竜馬の情報源や小回りとしての寝待ちの藤兵衛、「翔ぶが如く」では評論新聞の海老原穆などがそれにあたると思います。狂言回しと言ってもいいかもしれません。以上 2 つは傍流といってもいいかもしれませんが、「坂の上の雲」においてはやはり秋山兄弟を主流になぞらえて読んでしまっており、正岡子規はもう一つの主流だなぁ、と感じています。しかし情報を回す立場としては存在を無視することができません。

そんな子規はあまり健康体ではなく、セリフ自体もやわらかいため、逆に凄みのある雰囲気を醸し出しています。伊予弁もそれに一役買っていることでしょう。

「人間は友をえらばんといけんぞな。日本には羯南翁がいて、その下には羯南翁に似たひとがたくさんいる。正しくて学問のできた人が多いのじゃが、こういうひとびとをまわりも持つのと、持たんのとでは、一生がちごうてくるぞな。安くても辛抱おし、七十円や八十円くれるからというてそこらへゆくのはおよし。あそばずに本をお読みや。本を読むのにさほど金は要らんものぞな」 (p25~26)

この子規は秋山兄弟の弟、秋山真之と幼少の頃からの付き合いで、真之が海軍兵学校に入るまでは同じ学校に在籍していました。考え方的にも近いと思う部分があり、例えば

「和歌の腐敗というのは」
 と、子規はいう。
「要するに趣向の変化がなかったからである。なぜ趣向の変化がなかったかといえば、純粋な大和言葉ばかり用いたがるから用語が限られてくる。そのせいである。そのくせ、馬、梅、蝶、菊、文といった本来シナからきた漢語を平気でつかっている。それを責めると、これは使いはじめて千年以上になるから大和言葉同然だという。ともかく、日本人が、日本の固有語だけをつかっていたら、日本国はなりたたぬということを歌よみは知らぬ」
「つまりは、運用じゃ。英国の軍艦を買い、ドイツの大砲を買おうとも、その運用が日本人の手でおこなわれ、その運用によって勝てば、その勝利はぜんぶ日本人のものじゃ。ちかごろそのようにおもっている。固陋はいけんぞな」
 と、子規は、熱っぽくいった。 (p319)
 真之は、滞米中からおもいつづけてきたことを、子規に話した。
「どうせ、あしの思うことは海軍のことじゃが。それとおもいあわせながらいま升サンの書きものをよんでいて、きもにこたえるものがあった。升サンは、俳句と短歌というものの既成概念をひっくりかえそうとしている。あしも、それを考えている」
「海軍をひっくり」
「いや、概念をじゃな。たとえば軍艦というものはいちど遠洋航海に出て帰ってくると、船底にかきがらがいっぱいくっついて船足がうんとおちる。人間もおなじで、経験は必要じゃが、経験によってふえる智恵とおなじ分量だけかいがらが頭につく。智恵だけ採ってかきがらを捨てるということは人間にとって大切なことじゃが、老人になればなるほどこれができぬ」
(なにを言いだすのか)
 と、子規は見当がつかぬままに、うれしそうに聴いている。
「人間だけではない。国も古びる、海軍も古びる。かきがらだらけになる。日本の海軍は列強の海軍にくらべると、お話にもならぬほどに若いが、それでも建設されて三十年であり、その間、近代戦を一度経験し、その大経験のおかげで智恵もついたが、しかしかきがらもついた」
(後略) (p324~)

真之の話はこの後も続きます。とても興味深い内容ですので、是非本書を読んでいただきたいです。

さて、この秋山真之がどういった思考を行う人物であったかは、以下の文が適切に示しています。

 まず真之の特徴は、その発想法にあるらしい。その発想法は、物事の要点はなにかということを考える。
 要点の発見法は、過去のあらゆる型を見たり聞いたり調べたることであった。かれの海軍兵学校時代、その期末試験はすべてこの方法で通過したことはすでにのべた。教えられた多くの事項をひとわたり調べ、ついでその重要度の順序を考え、さらにそれに出題教官の出題癖を加味し、あまり重要でないか、もしくは不必要な事項は大胆にきりすてた。精力と時間を要点にそそいだ。
(中略)
「人間の頭に上下などはない。要点をつかむという能力と、不要不急のものはきりすてるという大胆さだけが問題だ」
 と言い、それをさらに説明して、
「従って物事ができる、できぬというのは頭でなく、性格だ」
 ともいった。
 真之の要点把握術は、永年の鍛錬が必要らしい。(p230~231)

以前、「捨てる技術」[1][2]ということに関して書いたことがありますが、それに通じるものがあります。なかなか大胆に切り捨てるというのは難しいんですよね。こういった真之的な思考は、「キャプテン」や「プレイボール」、そして「スラムダンク」など、スポーツマンガではよく見られる光景です。

子規と真之の会話の続きにはアメリカの海軍の話が持ち出されます。真之はアメリカに派遣されていたこともあり、その流れでカリフォルニア州における排日感情に関する記述がありました。(p283)
実質的には 1 ページ程度の記述ですが、ここで以前見た「ヒマラヤ杉に降る雪」を思い出しました。もうだいぶ前に見たため、今調べてみるとこれは第二次世界大戦後の話ですね。全然繋がっていませんでした。しかもカリフォルニア州でなくワシントン州ですし。私の場合はこのように、記憶を大胆に切り捨てるということがなかなかできません。まぁ「ヒマラヤ杉に降る雪」に関しては子役時代の鈴木杏ちゃんが出演しているという繋がりがあるので忘れることはできないのですが:-)

「坂の上の雲」は思っていた上を数段超える面白さで、何故「翔ぶが如く」を読み終わった後すぐ読みはじめなかったのか、と今更ながらに悔やんでしまっています。続きが非常に楽しみです。


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2006年02月04日

坂の上の雲(1)

意外に、というのも失礼な話なのですが、「竜馬がゆく」や「翔ぶが如く」のように私が知っている有名人が出ているという先入観が無かった分期待もしていなかったのですがとても興味深く読むことができました。本編を読む前の基礎知識は裏表紙にある以下の紹介だけでした。

明治維新をとげ、近代国家の仲間入りをした日本は、息せき切って先進国に追いつこうとしていた。この時期を生きた四国松山出身の三人の男達──日露戦争においてコサック騎兵を破った秋山好古、日本海海戦の参謀秋山真之兄弟と文学の世界に巨大な足跡を遺した正岡子規を中心に、昂揚の時代・明治の群像を描く長篇小説全八巻

この中で唯一聴いたことのある人物は正岡子規で、しかし思い出すのは国文学の人、程度のものです。あとは国語の教科書に載っていた写真が髪は無くて横顔だったよなぁ、くらいのものです。

1 巻で興味深い文章に以下があります。

 真之は、くびをかしげた。ものごとの追求力は、子規は常人よりすぐれている。
「しかし、考えを結晶させる力が乏しいようだな」
 と、真之はいった。真之にいわせると、「考え」というものは液体か気体で、要するにとりとめがない。その液体か気体に論理という強力な触媒をあたえて固体にし、しかも結晶化する力が、思想家、哲学者といわれる者の力である。その力がなければ、その方面にはすすめない。(p187)

これはうまい例えだな、と感心しました。多分、これは日常生活における全てにつうじることだと思います。その道を突き詰めていき、仕事にしている人も多いでしょう。勿論、この結晶化の過程が重要であり、一度結晶化してしまったものはそこで停滞をおこします。その停滞もまた問題であり、そのことに関してはここで触れています。

また、いつもの司馬節も健在です。

 極端な言い方をすれば、メッケルが日露戦争までの日本陸軍の骨格をつくりあげたといえるかもしれない。メッケル自身、後年それをひそかに自負していたようであり、日露戦争の開戦をきくや、ベルリンから日本の参謀総長あて、
「万歳──。日本人メッケルより」
 と、打電した。ちなみに明治時代がおわり、日露戦争の担当者がつぎつぎに死んだあと、日本陸軍がそれまであれほど感謝していたメッケルの名を口にしなくなったのは戦勝の果実を継いだ──たとえば一代成金の息子のような──者がたれでももつ驕慢と狭量と、身のほどを知らぬ無智というものであったろう。(p229-230)

これは第二次世界大戦を生きた司馬さんの感想であると思われますが、高度経済成長とその後のバブル崩壊後の日本、金融問題・年金問題、フリーター・ニートに代表される若年世代の労働問題など、現在の日本においても遠からぬ警鐘に聞こえます。

とまぁこういった箇所に注目すると暗めになってしまいますが、本編は緩やかに物語が流れていっています。秋山兄弟はともに尉官にあり、兄好古はフランスにて騎兵の研究、弟真之はイギリスで建造された軍艦吉野を日本に回航する任にあたっています。正岡子規はというと、この時期は健康体ではなく度々喀血を起こし、東京から松山に帰国することになります。しかし描写がおもしろいのか正岡子規という人物が実際にそうだったのか、まったく病人ぶるそぶりが見えません。医師に「安静に」といわれると体を動かさずにはいられないような感じです。

物語はこういったなか、2 巻へ続いていきます。


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2006年01月27日

古本という価値

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「竜馬がゆく」「翔ぶが如く」と司馬遼太郎本を読んできましたが、いい加減新品はいい値段がするため古本屋に寄ってみました。もちろん続きである「坂の上の雲」が目当てです。

丁度全巻揃っていたため購入しました。全 8 巻で 1500 円です。新品だと 4720 円ですので 1/3 以下の価格で購入できたことになります。こうやって比較してみると新品購入はありえなく思えますね。日本の本は高すぎです(翻訳される技術本などは特に・・・)。図書館を利用する手もありますが、貸し出し中の待ち時間を考えると古本の選択肢がまず頭に浮かびます。

古本を利用するときの楽しみの一つに、前のオーナーの読み跡があります。本にクセをつけたり書き込みをしたりです。自分が一度読んだだけでは気づかずに読み飛ばしていたであろうことでも、そのクセがあったために心に残ることがあります。

この「坂の上の雲」には面白い書き込み(プリントアウトしたものの貼り付け)がありましたので、全文引用してみます。

読書の習慣をつける

皆様ご存知の通り、社長は大変な読書家です。ビジネス書だけでなく古典から始まりあらゆるジャンルを網羅しています。その中のエキスを『日報つれづれ』で全社員に発信しているわけです。社長は、業績の向上だけでなく全員が知識を深め見識を持った人間として成長していただきたいと願っています。そのための一番の近道は、読書に勝るものはありません。先人の智恵が凝縮されたそれに触れる習慣をつけ、人間力を磨き魅力ある人間として生涯を過ごしていくことが、本来の大人としての義務だと考えます。
今後、責任者会議毎に推薦図書の要約をお渡しします。第一回目として、司馬遼太郎著『坂の上の雲』(1)(2)を選択いたしました。楽しんでお読み下さい。

『坂の上の雲』(1)(2)

本書は、司馬遼太郎が 40 才代をおおむね費やし、書上げた。資料集めでは、神田の古書店外でトラックを満載にするほどであったっという。この物語は、明治維新から日露戦争までの新興国家日本を、歌人正岡子規と、軍人秋山好古・真之兄弟を中心に描いたものである。この 3 人は伊予松山に生まれた。松山班は徳川方であり薩摩・長州・土佐の勤皇派とは維新後の生活が大きく異なってくる。没落士族には金がない。世にでるには学問が必要。好古は学費がただの学校、師範学校へ入学する。その後、東京へ行き士官学校へ入学し騎兵を志願した。真之は 10 才年下で子規と同学年。真之は年少のころから文学的才能があり絵にも長けていた。後、兄好古を頼りに上京し一般大学へ入り文学者を志すもその後海軍兵学校へ進む。正岡子規も同時に上京し、明治 22 年、常磐会宿舎に入る。旧松山藩の寮で現在では日立グループ所有の料亭になっている。(文京区)。この年喀血した。子規の名は、このときからである。ほととぎすは子規ともかく。

日清戦争は、欧米の帝国主義を真似た日本の侵略戦争という見方が一般的だが、司馬遼太郎は別の見方をしている。ロシアの極東侵略は日本の江戸時代中期からしばしば見られるように(ウラジオストックはもともと清国の領土で、極東を侵略するという意味がある。)イギリスとロシアにおける覇権争いの結果であった。その頃子規は根岸にいる。日清戦争終結間際、子規も記者として従軍した。すぐ帰国したが病が重くなり入院。一時快方に向かい東京に帰る。その途中に詠んだ句が有名な『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』である。

秋山真之は、アメリカへ留学する。戦略と戦術の勉強の為であった。ちょうど北西戦争がおき、観戦武官として従軍した。軍港に隠れるスペイン艦隊をアメリカは閉鎖作戦で閉じ込めた。後、旅順港で行った作戦と同一である。

この文章を書いた人は私の文章の書き方と非常に似ており、数字は半角で書く、半角数字と全角文字の間には半角スペースを入れる、カッコには半角カッコ () を使う、などの共通点があります。これだけでちょっとした好感を持ちます。

さてプロファイリングの真似事のようなことをしてみると、この人が言っている『日報つれづれ』というものは発信している、というあたりで blog 的なものかなと想像できます(日本で web が流行りだした頃の名残で「発信」という単語を使っているものと思います)。メールなら配信とかになるでしょう。全社員に、というあたりでこれがローカルなネットワーク上にあることがわかります。企業的に言うイントラネットです。

この文章の書き手と実際に本に貼り付けた人は別人で、責任者会議に出席している人でしょう。本自体に「~社蔵書」のようなスタンプがないことから、個人所有の本であることがわかります。会社の規模は 100 人前後の社員で(その他アルバイトはいるかもしれない)、責任者会議は 10 人前後であると想像します。『日報つれづれ』を書き、それを読む社員数が見込まれること、責任者会議においては要約をわたすだけの人数が見込まれることから想像する人数です。 2,3 人の責任者会議でこれだけのことをするとは思えず、そうなると組織的にも社員数は見込まれ、逆に社員数が多すぎる場合こういった個別的な動きは行われず、社内の福利厚生課などが組織として実施すると想像できるからです。


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2005年12月29日

暗号技術入門

ISBN4-7973-2297-7_ango.jpg暗号技術入門-秘密の国のアリス (ISBN:4797322977)
最近気になっていた暗号に関して勉強してみようと思い買ってみました。
暗号に関して興味を持ったキッカケはコリジョンンに関するニュースです。

SHA-0、MD5、 MD4にコリジョン発見、reduced SHA-1も (2004年08月18日)
http://slashdot.jp/security/article.pl?sid=04/08/18/0257220

フルバージョンのSHA-1にコリジョン発見 (2005年02月16日)
http://slashdot.jp/security/article.pl?sid=05/02/16/0725239

MD4/MD5 コリジョンの実証コードが公開 (2005年11月18日)
http://slashdot.jp/security/article.pl?sid=05/11/18/0125251

この本はまだ読み始めたばかりですが、非常に読みやすい文章で暗号に関する入門書としては最適だと思います。買うときには、暗号技術大全とどちらにしようか迷っていたのですが、暗号に関しては全くの素人だったのでこちらの本にしました。

ポイントやサンプルコードなど、まとめていけたらなと思います。


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2005年12月24日

田原坂

時代劇スペシャル 田原坂 を見ました。1987 年の作品なので、もう 18 年前のものです。1987 年が 18 年前ということに気づいて、ちょっと愕然とします。

この「田原坂」は「翔ぶが如く」が明治維新後の政府を描いている視点とはちょっと異なり、西郷隆盛自身が主人公の作品となっています(西郷さんは西郷吉之助と書かないと雰囲気がでませんね)。ですので時間的には幕末~西南戦争終結・大久保の暗殺までとなります。前半は西郷が島流しにあった部分が描かれており、これはとても新鮮でした。奄美大島で妻をめとったことやそこでの暮らしなど、今までに私が知らなかった西郷像が生き生きと描かれており、この映像作品では前半が非常に印象に残ります。

奄美大島での妻の名は愛加那です。この役は多岐川裕美さんが演じられていますが、とても美しく描かれています。今ちょっと調べてみましたが昭和 26 年生まれだそうで、また衝撃的でした。当時は 36 才です。愛加那について調べてみるとこのページを見つけました(奄美大島の歴史 ~西郷隆盛と奄美)。奄美大島に行きたくなりますねー。「青い鳥」のときもそうでしたが、こういった映像作品を見ると非常にその土地に行ってみたくなります。とくに南は好きです。

中盤は、いわゆる征韓論(遣韓大使派遣)に敗れてから下野、西南戦争にいたる部分が描かれます。廟堂の映像で印象的なのは三条実美です。役者さんの名前は・・・ググってもちょっと出てきませんが、これがはまりすぎです。きっとこんな感じだったんだろうな、と「翔ぶが如く」を読んでいたときに想像していたそのままを映像化された気分でした。

後半の西南戦争に関しては、桐野利秋はあまり前面にはあらわれず、淡々と時間だけがたっていった印象を受けます。ここにはあまり力が入れられてはいないようです。武器弾薬の差や輜重に関してもほとんど描かれていなかったと思います。最後にこの戦役での死者は~、と簡単にまとめられてしまっていました。これにつられて山形有朋や川路利良もあまり表立ってはあらわれません。

「翔ぶが如く」と決定的に違っていたのは大山綱良の描かれ方です。丹波哲郎がその役を演じていたためかとも思いますが、完全に西郷党の番頭的な描かれ方となっています。また、ちょっと違和感があったのが大久保利通です。「その案件は御廟議にはかけられますまい」といった、明治政権初期の舵取りを表に裏に執行していった裏の部分が全く映像にはあらわれてはいませんでした。岩倉具視との関係に関しても言及する部分は無かったと思います。

小説とは異なり、こういった映像作品では美しい映像が見どころになると思います。やはり奄美大島ですね。海と空の青や砂浜とのコントラスト。南国の花々の鮮やかな赤や対比としての森の緑などは非常に印象に残ります。さて、大河ドラマ版も見たいのですが近所のレンタルショップでは発見できませんでした。こんなときは本当にオンデマンドサービスがあればいいなと思いますね。最近では「ニュースサイト+この記事でブログを書く」的なものがありますが、映像のオンデマンドでも同様なサービスって出てこないかな。


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2005年12月12日

翔ぶが如く 雑記

「翔ぶが如く」を読み終えて 1 週間ほどたちました。この間、ふと考えていたことは桐野という男についてと目的と手段ということについてです。

桐野という男を思うと、他の一般の人(この一般の定義も難しくはありますが)に比べて、目的と手段が入れ替わっているという印象を受けます。桐野の目的は「如何に死すか」であり、これは薩摩隼人の美徳に照らし合わせた場合に「戦場にあって、爽快に」になります。この目的を遂げるための手段として西南戦争にあたったと見るべきでしょう(それ以前に、彼の人生をとおしての行動は常にその目的に則しているといえると思います)。これは以前にも引用した

失敗したところで西郷と薩摩一万余の士族と自分が死ぬだけのことである。戦場における死はむしろ薩人が激しくそれを美とするところだから、失敗してそれに至ったところで桐野に責められるべきところはすこしもない。
にあらわれています。

これとは逆に「如何にして太政官を転覆せしめるか」を目的とする野村忍介にとってみれば、西南戦争は手段でした。手段であるために戦さには勝たねばならず、そのためには戦略を用いようとします。

戦場にあっても爽やかさを旨とし、戦略などは用いずに正面からことにあたる桐野的戦術は、それ自身が薩摩的な生き方・戦い方でした。薩摩の老人たちの言う

「丁丑(ていちゅう)(明治十年)の戦さは、よかれ悪しかれ、桐野どんの戦さじゃった」
という評は、まさに正鵠を射ています。その生き方をまっとうするにおいて、目的を曲げられるような「戦略」を持ち出す野村忍介は、確かに疎んじたい気分となる人物だったことでしょう。

「手段のために目的を選ばない人」というと、パトレイバーの内海を思い出します。手段という言葉の意味は往々にして「行動」であるため、その「行動」が目的であるというやや複雑な言葉遊びになりますが、桐野の場合にはまさに西南戦争における「行動」が目的となっていました。

「翔ぶが如く」の最後は

ともかくも西郷らの死体の上に大久保が折りかさなるように斃れたあと、川路もまたあとを追うように死に、薩摩における数百年のなにごとかが終熄した(p.355)
とむすばれています。日本史には詳しくないのですがこの後長州閥が力を持つようです。

さて全巻読み終えたことですし、また時代劇スペシャルの DVD を観てみようと思います。時間 330 分らしいですが、これでもきっと短く感じるんだろうな。あと、大河ドラマ版もあるようですね。総集編で時間 411 分です。


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