2007年02月03日
柳沢発言
- 柳沢厚労相:辞任否定「まったく念頭にない」-行政:MSN毎日インタラクティブ
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20070203k0000m010131000c.html - asahi.com:救えぬ失言 柳沢厚労相「産む機械」 首相が謝罪 - 政治
http://www.asahi.com/politics/update/0201/007.html
所謂「子どもを産む機械」発言です。政治の場では言ってはいけない言葉ですが、文学の分野では結構平気で(?)扱われています。例えばご存知「家畜人ヤプー」ですね。Yahoo も語源を辿れば「ガリヴァ-旅行記」のヤフーに依拠しています。
「家畜人ヤプー」はあまり読むことはオススメしませんが(^^; 時期が時期だけにご興味がある方はどうぞ。
2006年09月14日
最近読んだ本
人のやらないことをやれ! 岡野雅行 ISBN:4827202389 いわゆる岡野本です。彼の本を読んだのは3冊目(1冊は松浦元男さんとの対談本)なんですが、大体同じ感じで書かれていますね。サクっと爽快に読める本です。[1][2] | |
利己的な遺伝子 リチャード・ドーキンス ISBN:4314010037 最近、増補新装版が出たんですね。私が読んだのは 1991 年版です。この本では自分の中のダーヴィニズムに対する理解が曖昧だったということを実感しました。そのため前提条件が曖昧なまま発展理論を読んでいるような感じで消化不良気味です。ダーヴィニズムをもうちょっと理解してからもう一度読み直そうと思います。 | |
暗号化 スティーブン・レビー ISBN:4314009071 暗号技術入門を読んだときに興味を持って随分前に買った本です。やっと最近読み終わりました。感想はただ一つ「この本は面白い!」です。再び暗号に興味が湧いてきました。暗号技術入門にあった「Diffie-Hellman 鍵交換」のホイットフィールド・ディフィーを中心に、民間の暗号に携わって来た人びとが描かれています。RSA の生い立ちなんかも知ることが出来、「RSA といえども会社的には大変だったんだぁ」と妙に感心してしまいました。 |
2006年07月31日
BANANA FISH
実家からサルベージできた BANANA FISH をこの休みから今日にかけて読み返していました。以前、お~い!竜馬を読み返したときにも感じたことですが、本当に忘れているところは全く覚えていませんね。完全に新作を読むような気持でページをめくっていました。
読み返していて再認識させられたことに、私が BANANA FISH からうけた影響で強いところは、ヘミングウェイに興味を持ったところだな、と思い出しました。BANANA FISH を読まなかったらヘミングウェイは全く読まなかっただろうと思います。ヘミングウェイを知ることによって「ロストジェネレーション」という世代を知り、このこととバブル後の自分達の世代を重ねて「バブル後のロストジェネレーション」と思っていたときがありました。勿論、茶化し(笑)ですが、それが今でも内輪のメーリングリストの名前になっています。
久しぶりに読み返すと、別コミでリアルタイムに読んでいた頃の話は意外と覚えているのですが、単行本のみで読むようになった部分に関しては最終話を除いてほとんど忘れていましたね。サルベージできなかったマンガにぼくの地球を守ってがありますが、もし今後読むことがあってもきっと同じように忘れているんだろうな、と思います。そしてまた、そこからうけた影響を思い出すんだろうな、とも。別コミや花とゆめをまわし読みしていたのを、懐かしく思い出した瞬間でした。
2006年07月04日
DEATH NOTE Vol.12
最終巻である 12 巻の発売日です。ジャンプの連載が完結したときにはいろんな Blog にエントリが書かれ、そのときにはブックマークだけしておいたものを単行本を読み終わった今、読みにまわっています。本当に人気があったマンガだったんだな、と改めて思います。映画にもなるはずですね。
単行本の帯には、TV アニメが 10 月より放送、とあります。久しぶりにアニメを見ようかな、という気分になりました。MONSTER のように最後までクオリティが下がらずに続けて欲しいと思います。
物語はあのような結末を迎えました。私の感想は Vol.8 から完結までは変わっていませんが(そのため、その間のエントリもありません)、最後のキラ教徒(?)の巡礼の風景だけは非常に印象に残りました。この数ページがあったからこそ、読み終えた後に満足な読了感を味わえたのだと思います。
それまでのキラ崇拝者達の風景は、さくらテレビの出目川に代表されるようにわざと醜く見せらることが多く、初期に登場した熱心な信奉者であるミサや終盤に登場する魅上など、弱者であったがためにキラに惹かれた人たちに関しては意図的に無視、もしくはその他大勢の大衆の中に埋没させられたような形で扱われていたと思います。最後の巡礼の風景は、そういったキラにしか救いを見出せなかった人たち、それまでは埋没させられていて描かれなかった人たちが舞台の表に立った風景(というには慎ましやかではありますが)であると感じました。
この辺を宗教的に分類すると、純粋キラ崇拝派とでも呼ぶのでしょうか。もし DEATH NOTE がこういった形で完結するのではなく、ライトが神となった後が描かれる if の世界があったならば、キラ教内部における(その世界はキラ教が唯一の宗教になっているかもしれませんが)宗教闘争を描いて欲しいですね。
・・・この感想は攻殻機動隊のタチコマを使った人工知能のシミュレーションに近い感じかもしれません。現実世界の人間を使ってシミュレーションができるのは、本当に「神」ですね。
2006年06月10日
評論的なもの
久しぶりに図書館に出かけ「坂の上の雲」の再考、的な本を数冊めくってみていました。再考といっても、「坂の上の雲」という小説に対してあまりにも史書的に扱われ過ぎている風潮に対する再考、という論点ではありましたが。
私が理系だからかもしれませんが、その手の本に関しては単に「感想文」としか感じることができませんでした。論拠が薄い、というところまでもいけず「・・・だから~、だと思う」的な、自分の中の感想や想像でしかないことを根拠にあげている文が多すぎたからです。
なんていうか、文系的な考え方に関しては理系的な人は創造力を膨らませてあげなければいけないんですかね…。それって論評というよりもあんたの感想じゃん、としか受け止めることができないようなものに関して、どうやってまっとうに付き合ったり批判したりできるんでしょう。
元を正せば「司馬史観」的なものがこの原点にありますが、正しい/間違っている、といった論点ではなく、好き/嫌い、で論じれる部分が多いところに文系と理系というものの違いを痛感してしまいました。
2006年05月27日
坂の上の雲(4)
4 巻ではやっと有名な地名が現れます。
二〇三高地。
残念ながら私は、漠然と「天王山」的な意味あいしか知ってはいませんでした。ヒカルの碁 に興味を持って以降、叔父によく碁を打ってもらうことがあったのですが、重要な局面で手を抜くと「ここが二〇三高地だったのに、退いちゃっちゃダメだ」とよく言われたものです。
たとえば海軍が献策していたのは、
「二〇三高地を攻めてもらいたい」
ということであった。この標高二〇三メートルの禿山は、ロシアが旅順半島の山々をことごとくベトンでかためて砲塞化したあとも、ここだけは無防備でのこっていた。そのことは東郷艦隊が洋上から見ていると、よくわかるのである。この山が盲点であることを見つけた最初の人物は、艦隊参謀の秋山真之であった。
「あれを攻めれば簡単ではないか」
ということよりも、この山が旅順港を見おろすのにちょうどいい位置をもっているということのほうが重大であった。(p25)
しかし二〇三高地攻略の詳細は次巻に持ち越されます。もう既にその章まで読み進んでしまっていますが、ここは壮絶な戦場となります。それは次巻のエントリに譲りましょう。
この巻は、大山巌と児玉源太郎らが日露戦争における陸軍の現地における高等司令部の運営を行うため明治三十七年七月六日、新橋を発つところから始まります。終わりは同年十一月二十六日、旅順への第三回攻撃が行われる朝の記述で終了します。陸軍・海軍の会戦をそれぞれ時間どおり、ときには前後して記述がなされています。
・・・という文章までを 3/28 に書いて、「坂の上の雲」に関してはエントリをまったく書いていませんでした。これは途中、割り込み的に他の本を読んでしまっていたことや、あまりにも「坂の上の雲」を読み進めていてしまい、そしてこの本に熱中するあまりの結果だったと思います。昨日、ちょうど最終巻を読み終わりました。思い出しながら各巻に関して徒然と書きたいと思います。
改めてちょっとずつ読み返し、思い出し、この巻で重要となる箇所をみるとそれは「黄海海戦」になります。ロシアの太平洋艦隊が旅順からウラジオストックへ移動するときにおきた海戦です。この黄海海戦の描写では、日本の艦隊砲に使われている砲弾の説明が行われます。砲弾に使われている火薬を「下瀬火薬」といいます。
日本の砲弾は、下瀬正允(しもせまさちか)という無名の海軍技師の発明したいわゆる下瀬火薬が詰められている。この当時、世界でこれほど強力な火薬はなかった。その爆発によって生ずる気量は普通の砲火薬二倍半であったが、実際の力はいっそう強猛で、ほとんど三倍半であった。(p57)
この当時の世界の常識からするとこれは不思議な砲弾であり、通常は徹甲弾を用いるのが常識だったそうです。徹甲弾の効果としては艦に穴をあけ、内部において爆破をおこしめて艦を沈めることを目的とするのですが、この当時の日本海軍の考え方は装甲は貫かない代わりに艦上で砲弾を炸裂させ、その付近にある艦上の構造物を無力化させることが狙いだったようです。結果的に敵艦は浮かぶ鉄くずとなります。黄海海戦はこの下瀬火薬を使った砲弾、特に本文中「怪弾」と呼ばれる運命の一弾によって戦局が決まります。その描写は p60 より始まります。
黄海海戦は、結果的には日本に利するかたちに終結をみます。ロシア側の旗艦ツェザレウィッチはその「怪弾」を司令塔付近に受け、ウィトゲフト以下の幕僚がそこにおいて消滅をします。艦隊の頭脳がそこにいおいて存在しなくなり、またその爆発により旗艦は梶を左にきることになります。この爆発の被害は操舵員をも含めており、この操舵員の絶命の瞬間において梶にもたれかかり、左側に倒れるようにして梶をきったようです。この旗艦の動きがロシア艦隊混乱の原因となりました。
しかし日本艦隊はロシア艦隊の一艦もこの海戦では沈めることができませんでした。何が日本に利したかというと、混乱によりロシア艦隊の各艦が分断され、それぞれの艦がそれぞれの判断によって行動をおこしたことです。中立港に逃げ込む艦や旅順港に戻る艦、単身決戦に挑む艦など、意思の統一が図られることがなかったことによります。
黄海海戦はこの巻の最初、「黄塵」という章で完了し、その後は陸軍側の記述になります。「遼陽」「旅順」「沙河」「旅順総攻撃」です。「ロシア軍人は決して弱くなかった」
と、のちに東郷は語っている。
「むしろ強兵であった。しかし日本に対してやぶれた主な因は、双方の観念のちがいにあるらしい。ロシア人は戦争は人間個々がやるものだとはおもっておらず、陸軍なら軍隊、海軍なら軍艦がするものだとおもっている。このため軍艦がやぶれると、もはや軍人としての自分はつとめはおわったものと思い、それ以上の奮闘をする者は、きわめてまれな例外をのぞいてはない。日本人は、軍隊がやぶれ艦隊が破損しても一兵にいたるまで呼吸のあるうちは闘うという心をもっていた。勝敗は両軍のこの観念の差からわかれたものらしい」
たしかにそうであった。ロシア軍艦は黄海では一艦も沈まないのに、すでにみずから敗北の姿勢をとった。これが、日本側に幸いした。(p77)
日本陸軍は伝統的に砲弾や兵器に対する感覚に鈍感であることの記述から始まります。
じつをいえば、この遼陽に展開しつつあるロシア軍に対し、日本軍は機敏な攻勢に出るべきであった。が、出ることができなかった。
砲弾が足りなかったのである。
海軍は、あまるぐらいの砲弾を準備してこの戦争に入った。
が、陸軍はそうではなかった。
「そんなには要るまい」
と、戦いの準備期間中からたかをくくっていた。かれらは近代戦における物量の消耗ということをについての想像力がまったく欠けていた。
この想像力の欠如は、この時代だけでなくかれらが太平洋戦争の終了によって消滅するまでのあいだ、日本陸軍の体質的欠陥というべきものであった。(p104)
が、日本陸軍は、
「砲一門につき五十発(一ヶ月単位)でいいだろう」
という、驚嘆すべき計画をたてた。一日で消費すべき弾量だった。
このおよそ近代戦についての想像力に欠けた計画をたてたのは、陸軍省の砲兵課長であった。日本人の通弊である専門家畏敬主義もしくは官僚制度のたてまえから、この案に対し、上司は信頼した。次官もその案に習慣的に判を押し、大臣も同様だった。それが正式の陸軍省案になり、それを大本営が鵜のみにした。その結果、ぼう大な血の量がながれたが、官僚制度のふしぎさで、戦後たれひとりそれによる責任をとったものはない。(p106)
錯誤というようなものではないであろう。日本陸軍は、伝統的体質として技術軽視の傾向があった。敵の技術に対しては勇気と肉弾をもってあたるというのが、その誇りですらあった。これはその創設者の性格と能力によるところが大きいであろう。日本陸軍を創設したのは技術主義者の大村益次郎であった。が、大村は明治二年に死に、そのあと長州奇兵隊あがりの山形有朋がそれを継いだ。山形の保守的性格が、日本陸軍に技術重視の伝統を希薄にしたということはいえるであろう。技術面の二流性は、兵卒の血でおぎなおうとした。(p183)
3 巻のエントリで書いたことは、この陸軍と海軍の官僚制の違いに関してです。陸軍ではこのような官僚主義の横行が日露戦争に挑む前から存在しているのに対し、海軍にはその景色を認めることが出来ません。これは 3 巻のエントリでとりあげたような、薩摩的将帥という気質が陸軍には存在していなかった、といってしまえばそれまでですが、それでも
にはその風景を(形式上)多少は認めることが出来ます。が、決定的に違うのが責任の所在です。日本人の通弊である専門家畏敬主義もしくは官僚制度のたてまえから、この案に対し、上司は信頼した。次官もその案に習慣的に判を押し、大臣も同様だった。
「それは山本サン、買わねばいけません。だから、予算を流用するのです。むろん、違憲です。しかしもし議会に追及されて許してくれなんだら、ああたと私とふたり二重橋の前まででかけて行って腹を切りましょう。二人が死んで主力艦ができればそれで結構です」
上にたつ者が責任をとるために信頼した部下に自由に行動させる、という前提がまったくなく、ただ形式的な上司であり、専門的なことは専門家に投げる、あがってきたものに関しては監査検証は行わない、という官僚主義に徹底しています。
こういった官僚主義の問題として今日の日本で特に熱い話題となっているのは社会保険庁の年金問題です。
- 社保庁不正免除:三重の局長を更迭 社会保険庁-行政:MSN毎日インタラクティブ
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20060527k0000m010151000c.html
老朽化した国家はこの官僚主義の腐敗によって内部から瓦解が始まります。
敵よりも大いなる兵力を終結して敵を圧倒撃滅するというのは、古今東西を通じ常勝将軍といわれる者が確立し実行してきた鉄則であった。日本の織田信長も、わかいころの桶狭間の奇襲の場合は例外とし、その後はすべて右の方法である。信長の凄みはそういうことであろう。かれはその生涯における最初のスタートを「寡をもって衆を制する」式の奇襲戦法で切ったくせに、その後一度も自分のその成功を自己模倣しなかったことである。桶狭間奇襲は、百に一つの成功例であるということを、たれよりも実施者の信長自身が知っていたところに、信長という男の偉大さがあった。
日本軍は、日露戦争の段階では、せっぱつまって立ちあがった桶狭間的状況の戦いであり、児玉の苦心もそこにあり、つねに寡をもって衆をやぶることに腐心した。
が、その後の日本陸軍の歴代首脳がいかに無能であったかということは、この日露戦争という全体が「桶狭間」的宿命にあった戦いで勝利を得たことを先例としてしまったことである。陸軍の崩壊まで日本陸軍は桶狭間式で終始した。
(中略)
「日露戦争はあの式で勝った」
というその固定概念が、本来軍事専門家であるべき陸軍の高級軍人のあたまを占めつづけた。織田信長が、自己の成功体験である桶狭間の自己模倣をせず、つねに敵に倍する兵力をあつめ、その補給を十分にするということをしつづけたことをおもえば、日露戦争以後における日本陸軍の首脳というのは、はたして専門家という高度な呼称をあたえていいものかどうかもうたがわしい。そのことは、昭和十四年、ソ満国境でおこなわれた日本の関東軍とソ連軍との限定戦争において立証された。
この当時の関東軍参謀の能力は、日露戦争における参謀よりも軍事知識は豊富でありながら、作戦能力がはるかに低かったのは、すでに軍組織が官僚化していてしかもその官僚秩序が老化しきっていたからであろう(p256-257)
ちょっと舞台はとび、以下はペテルブルグにおける会議の風景です。
この宮廷会議は、当時の日本の政治家からみれば、奇妙なものであったろう。
ほとんどの要人が
──艦隊の派遣は、ロシアの破滅になる。
とおもいながら、たれもそのようには発言しなかった。文官・武官とも、かれらは国家の存亡よりも、自分の官僚としての立場や地位の保全のほうを考慮した。
「敗ける」
といえば、皇帝の機嫌を損ずるであろう。損ずればかならずやがては左遷された。そのことは、この席にはいないウィッテ(かれはすでにしりぞけられて閑職にあった)が、書いている。
「私もこの種の会議に何度も列席したが、列席者はあらかじめ、その議題についての陛下の御内意を知っているか、推察していた。その御内意に反すまいとした。御内意に反する意見を持っているときは、言うことをさしひかえた」
老化した官僚秩序のもとでは、すべてこうであった。一九四一年、常識では考えられない対米戦争を開始した当時の日本は皇帝独裁国ではなかったが、しかし官僚秩序が老化しきっている点では、この帝政末期のロシアとかわりはなかった。対米戦をはじめたいという陸軍の強烈な要求、というより恫喝に対して、たれもが保身上、沈黙した。その陸軍内部でも、ほんの小数の冷静な判断力のもちぬしは、ことごとく左遷された。結果は、常軌はずれのもっとも熱狂的な意見が通過してしまい、通過させることによって他の物は身分上の安全を得たことにほっとするのである。(p328-329)
官僚主義、といってしまえば簡単ですが、これは難しい問題です。ここでは軍が取り上げられていますが、現在社会においては一般的な組織に適用できます。政府や官庁、会社などです。
さて、先の宮廷会議においてバルチック艦隊が東征することがきまり、ロジェストウェンスキー(海軍軍令部長兼侍従武官(p229))がその司令長官となります。このロジェストウェンスキーがどの様な人物であったかは、いかに記述で読み取れます。
バルチック艦隊の司令長官であるロジェストウェンスキー中将は、どちらかといえば日本の陸軍大臣寺内正毅に似ているであろう。
創造力がなく、創造をしようという頭もなかった。事務家で、事務にやかましく、全能力をあげて物事の整頓につとめ、規律をよろこび、部下の不規律を発見したがる衝動のつよさは異常で、双方とも一軍の将というよりも天性の憲兵であった。さらに双方とも、その身分と位置は他のたれより安泰であった。なぜなら、ロジェストウェンスキーは皇帝ニコライ二世の寵臣であり、寺内正毅は山形有朋を頂点とする長州閥の事務局長的な存在であった。日本にとって幸いだったのは、寺内が陸相という行政者の位置につき、作戦面に出なかったことであった。ロジェストウェンスキーは、対日戦の運命を決すべき大艦隊の司令長官として海上を駛っているのである。(p321-322)
陸戦のほうは旅順の問題が深刻化しています。旅順攻略にあたったのは、私でも名前を知っている乃木将軍です。乃木希典が第三軍の軍司令官になるいきさつは、
からわかり、やがて大本営が第三軍をつくることになったとき、軍司令官に補せられたのは、ひとつには長州閥の総帥山形有朋が推薦したからでもあった。ついでながら、第一軍から第四軍、及び鴎緑江軍にいたるまでの軍司令官が、第二軍の奥(福岡県出身)をのぞくほかぜんぶ薩摩人で、長州人がいなかった。薩長両閥人事のバランスをとるために、長州人の乃木を入れることは、この当時の人事感覚からみて安定感があったのだろう。(p24)
という不幸も孕みます。そのかわり、乃木に配する近代戦術の通暁者をもってすればいいということで、薩摩出身の少将伊地知幸介を参謀長にした。(中略)ところがこの伊地知が、結局はおそるべき無能と頑固の人物であったことが乃木を不幸にした。乃木を不幸にするよりも、この第三軍そのものに必要以上の大流血を強いることになり、旅順要塞そのものが、日本人の血を吸い上げる吸血ポンプのようなものになった。(p24-25)
乃木希典率いる第三軍は六月二十六日、剣山の堡塁を抜きます。しかしその後、旅順後略は苦戦に苦戦を重ねます。八月二十日前後、第一次総攻撃で日本の死傷者は一万六千、九月十九日(及び十月二十六日)の第二次総攻撃で死傷者四千九百、これに対して要塞側はびくともしません(p190,308,397)。そして第三次総攻撃が十一月二十六日、開始されます(p390)。しかしこの第三次攻撃は敵将であるステッセル将軍は予見しており、防御を怠ってはいません。また東京の大本営でもこの二十六日という周期的な攻撃日に懸念を抱いています。
「わざわざ敵に準備させ、無用に兵を殺すだけのことではないか。いったい乃木や伊地知はどういうつもりで二十六日をえらぶのか」
ということを総長の元帥山形有朋も、次長の少将長岡外史もおもい、こんどの第三回総攻撃にあたって、この疑問だけのために東京から森邦武中佐を使者として送り、柳樹房の乃木軍司令部を訪ねさせた。これに対し、伊地知参謀長が返答したのは、以外な理由であった。
「その理由は三つある。その一つは火薬の準備のためだ。その導火索は一ヶ月保つ(一ヶ月たつとカゼをひき、効力がうすれる)。だから前回の攻撃から一ヶ月目になるのだ」
という科学性にとぼしく、しかも戦術配慮皆無の理由がひとつ。
「つぎに、南山を攻撃して突破した日が、二十六日だった。縁起がいい」
さらにいう。
「三つ目は、二十六という数字は偶数で割りきれる。つまり要塞を割ることができる」
乃木も横で、大いにうなずいていた。この程度の頭脳が、旅順の近代要塞を攻めているのである。兵も死ぬであろう。(p397-398)
陸軍と海軍、人事の明暗を思わずにはいられません。
2006年05月21日
昔のマンガ
実家の片づけでサルベージできたマンガをちょっと読んでいました。学生(及びそれ以下の)時代には夢に思っていたことも、現実世界でそれをある程度実現して/されてしまうと、その後はルーチンワークにしかならないんかな、と微妙に凹んでいます。
実際の現実をかつての夢に描いた世界と比べると、それはそれで「夢に敗れた・・・」的にドラマでは劇的にいけるものですが、それでも現在はまだかつて自分が思い描いていた社会とは違う世界にいるな、ということが実感として浮かんできます。
難しいのですが、スポコンマンガ/アニメのようなノリの技術系マンガ/アニメが無い/薄いのって、日本的に微妙なんじゃないかなって気がしました。
今日の日本を支えているのは、資源の無い国なんだから加工貿易・・・とかって昭和な話をしたいわけじゃないんですが、やっぱり自分はクチで儲けるよりそっち系なんだろうなって気はします。
2006年04月14日
無常という事
「或云、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つづみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれて云、生死無常の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけ給へと申すなり。云々」
これは、一言芳談抄のなかにある文で、読んだ時、いい文章だと心に残ったのであるが、先日、比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細剄な描線を辿る様に心にしみわたった。(後略)モオツァルト・無常という事 小林秀雄 ISBN:4101007047小林秀雄の文学(批評)は、私には到底単純には理解できない部分があります。が、この「無常という事」におけるこの引用から始まる文体、それ自身にはメソッドとしての小林秀雄の方法論を読み解く鍵が多分に隠されていると思っています。
という私は、高校時代の現国でこれを習って以降、その先生が「小林秀雄は苦手だ」といった発言を鵜呑みにして、自分も「苦手だ」というカテゴライズをしてしまったクチです。これは中学生のときに理科の先生が「電気は難しいからな」といってそれ以降、電磁気学が苦手になったのと同じことではあります。どうでもいいことですが:-)
今日も呑みが渋谷であったのですが、電車での帰途、途中で思い出したのがこの小林秀雄の「無常という事」でした。今となってはもうそれが何を意味していたのかを知る術はありませんが、其のときの気持は小林秀雄が「無常という事」を書くきっかけになった気分と同一だろうと思っています。
当時の文学雑誌や同人誌への投稿は、世が世である現代では Blog というツールへかたちをかえて受け継がれているんだな、と妙に今は感心しています。