2006年06月11日
溜池NOW
- パソコンテレビ GyaO [ギャオ] 無料動画 |バラエティ ZIGORO|
http://www.gyao.jp/variety/zigoro/
ジゴロウが出ているって話は聞いていましたがまったく観ていなかった「溜池NOW」、やっとこ観ました。 #6 からジゴロウ喋ってますね。黒幕さんいっしょなのかな?って思うくらいの喋りです。過去の回も観れるようなんでみてみようと思います。
こうやってジゴロウを久しぶりに見ると人形が欲しくなりますねぇ。ボイチェンとか仕込んで持ち歩きたくなってしまいます。飲み会ネタですね:-)
あいちゃん(2)
前回書いたエントリが 5/25 で、そのときには YouTube に 5,6 作しかなかった気がしたのですが、今見るとめっさあがっていますよ。
例えば、あかぎあいへのラブレ ター:
懐かしいというか、便利というか、これって実際にはテレビ局がサービスをしてもいいものだと思います。商業的に考えると痛いことだとは思いますが、こうやって何かをはじめるところが次世代を切り開くんでしょうね。
しかしまぁ、以下のことが言われているような日本では、
- 【第7回】ネット進出より“おいしい”キー局と地方局の関係
http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20060512/102117/
難しいんでしょうね・・・。
酔った上での戯言
日本人における web にみる日露戦争史観、的なものをつかもうとして Google で抽出されたサイトを適当に眺めていましたが、未来から過去を俯瞰する、という立場を超えて踏み込んでいる論になかなか接することができません。多分 web で見れるような文章はここも含めて社会的に確立した論評のコピーでしかなく、意識的にそう思っていないとしても、無意識下に昭和後期によって醸成された論が大勢だと感じられます。
もし、旅順攻略におけるの乃木将軍の無能性、といったようなことを司馬史観以降の現代日本においていうのであれば、現在の日本が抱える経済的な問題に関しても同じように厳しく言及して欲しいものと感じます。誰かが定義した文言でなく、あなたの定義する現代論を持って論じてもらいたいという気分です。
人の文章は断定を好み、その断定の根拠となるものはどこかの著名な原書や社会的な方向によることが多いと感じます。特に日本においては、社会教育の不十分さから国民におけるある種のマスコミ信仰があり、またマスコミも国民の上において存在している、といった特権階級意識が強いと感じます。この辺は端的な例としてはマスコミ各社の平均給与をあげればことたりるでしょう。例えばライブドア騒動があったフジテレビの平均年収は 15,670 千円。ライブドアは 4,560千円など。
事件報道に関しても逮捕ということが主眼におかれ、それが実際に有罪であるか無罪であるかという司法判断に関しては大きく報道されることは稀です。日本においては逮捕されることと有罪になることはほぼ同義の意識で扱われていると思いますし、私も自分で意識して考えない限り「逮捕される=悪」であると子どもの頃から感じていました。これは報道の影響によります。
まぁ何が言いたいかというと、自分で考え、自分で判断しないとダメだな、ということです。これが人間社会では特に難しいことであると最近感じています。理系は、ある種、楽です。
2006年06月10日
畑ちゃんと押切もえちゃん
もえちゃんの公式サイトを観たときに感じたのが、「畑ちゃんに似てるなぁ」という感想です。今まではまったく感じたことはなかったのですが、右側のモノクロ写真にはそう感じてしまいました。これは写真のとり方によりますね。
これにはモデルさんの笑顔の作り方や、そういった方法論的な部分が多くあるとは思います。実際、この写真以外、もえちゃんに畑ちゃんを感じたことは今までにありませんでした。しかし彼女は彼女の方向を進んでいるようですし(あまり詳しくないんですが…)、これからの活躍も期待してしまいます。
以前キャバで彼女の話をふったらファンの子がいて、「読者モデルの頃から知ってて、ずーっと応援してる。苦労していた頃もずっとみてたから、彼女には成功してもらいたいよ。」みたいなことを言ってました。こういった子達が一線のモデルさんを支えているんだなぁ、と感じた瞬間でした。
評論的なもの
久しぶりに図書館に出かけ「坂の上の雲」の再考、的な本を数冊めくってみていました。再考といっても、「坂の上の雲」という小説に対してあまりにも史書的に扱われ過ぎている風潮に対する再考、という論点ではありましたが。
私が理系だからかもしれませんが、その手の本に関しては単に「感想文」としか感じることができませんでした。論拠が薄い、というところまでもいけず「・・・だから~、だと思う」的な、自分の中の感想や想像でしかないことを根拠にあげている文が多すぎたからです。
なんていうか、文系的な考え方に関しては理系的な人は創造力を膨らませてあげなければいけないんですかね…。それって論評というよりもあんたの感想じゃん、としか受け止めることができないようなものに関して、どうやってまっとうに付き合ったり批判したりできるんでしょう。
元を正せば「司馬史観」的なものがこの原点にありますが、正しい/間違っている、といった論点ではなく、好き/嫌い、で論じれる部分が多いところに文系と理系というものの違いを痛感してしまいました。
2006年06月09日
注文の多い料理店を書いたときの宮沢賢治
なんだかその心境を、蛯原友里さんと篠原涼子さんの出演しているマキアージュの CF を観ているときに突然として感じてしまいました。・・・というか、感じた気になりました。これは勿論蛯原友里さんに対する感情・・・だと思います。
エビちゃんには期待したり、世間の喧伝が嫌だったり、自分の中で外においたり、それでもまた気になったり、と短期間の中で非常に感情を起伏させられている(いまだ進行形な)モデルさんです。
といって、もうすでにそのときの感情がどういったものであったかを具体的に示すことはできなのですが、そのときには違和感なくそう感じていたのが、今となっては不思議な感覚です。無常という事における小林秀雄の感覚も、こういったことだったんだろうか、と、今は説明ができない、揮発的な記憶がとても恨めしくも思ってしまいます。