昔のマンガ
実家の片づけでサルベージできたマンガをちょっと読んでいました。学生(及びそれ以下の)時代には夢に思っていたことも、現実世界でそれをある程度実現して/されてしまうと、その後はルーチンワークにしかならないんかな、と微妙に凹んでいます。
実際の現実をかつての夢に描いた世界と比べると、それはそれで「夢に敗れた・・・」的にドラマでは劇的にいけるものですが、それでも現在はまだかつて自分が思い描いていた社会とは違う世界にいるな、ということが実感として浮かんできます。
難しいのですが、スポコンマンガ/アニメのようなノリの技術系マンガ/アニメが無い/薄いのって、日本的に微妙なんじゃないかなって気がしました。
今日の日本を支えているのは、資源の無い国なんだから加工貿易・・・とかって昭和な話をしたいわけじゃないんですが、やっぱり自分はクチで儲けるよりそっち系なんだろうなって気はします。
2006年05月20日
ブスの瞳に恋してる(2)
溜めていた 2 話から 6 話までざっくり観ました。消化しようかな~と思って「早見早聞」機能を使おうかとも思ったのですが、これが面白くほぼ等倍で観てしまっていました。
中でもやはり最初のエントリで書いたように井川遥さんは秀逸ですね。彼女の喋り方や言葉のクセは、本当に自分の好きなテンポや音程にはまります。これはヤヴァイくらい。
あとは美幸ちゃんの同居人である滝沢沙織さんと MEGUMI さん。滝沢さんはアットホームダッドで多分はじめて見ました。彼女は大抵 3 人で部屋のシーンが多いのですが、ちょっと足癖が悪い感じの座り方をよくしています。しかしこれがとてもよく似合う。彼女のように肢体の長い人がああいった座り方をしているのは結構好きなんですが、それでもいつもあれだときっと小言を言っちゃうだろうな、と思います。人のクセって見ちゃうんですよね、そして気になって。それでも好きなんですが。
天気
久しぶりに部屋のことができる休日です。
天気も思っていたよりも晴れて、湿度はありますが洗濯や布団干しにうってつけに近い感じです。明日も晴れるようなんでいろんな洗濯や掃除ができます。晴れの休日は本当にいいものです(^^)
(16:45 追記)
- asahi.com:東京23区と多摩北部、南部に大雨・洪水警報 - 社会
http://www.asahi.com/national/update/0520/TKY200605200193.html
晴れていると思ったら天気予報のとおり夕立(?)です。よく当てるなー、という感じ。洗濯や掃除の間に買い物も済ませたので、もう今日は呑んでいるだけで平気ですが(笑)すでにだいぶまわっています:-)
2006年05月18日
2006年04月18日
ちびまる子ちゃん
- テレビアニメ放送 15 周年記念ドラマ
ちびまる子ちゃん
http://wwwz.fujitv.co.jp/maruchan/
これはもう手放しで楽しんでしまいました。自分的前評判としては美山加恋ちゃんと福田麻由子ちゃんの夢の共演(というにはそんなに絡みはありませんが)があったり、見ている最中にはたまちゃんのパパの八嶋智人さんや佐々木のじいさんのきたろうさんは超はまり役でしたし、丸尾スエオ役の佐藤和也くんは switch! のオール電化 CF でだいぶ顔が売れていてこれがまた学級委員としてはまり役、最後になりますが超気になったのが野口さん役の甲野優美ちゃんで、今後がとても気になります。
3 年 4 組のみなさんと配役に関してはこちらをどうぞ。
しかしこのちびまる子ちゃんの放送 15 年というコンテキストは凄いですね。時間は歴史、歴史は説得力という言葉を信じてしまいます(←今私が作りました。胃酸過多中和のため呑んでます(T_T;)。冗談はおいておくとして、やはりこれだけ時間がたつと受け手の側が「ちびまる子ちゃんというコンテキスト」に自然と自分を移してしまうものだな、と感じました。
さて、主役がまるちゃんという小学 3 年生の女の子でありマンガやアニメの延長線上であるため、ドラマとしての内容が原作と離れることはありません。ここで重要になるのが、先にあげた子役の子達の今まで演じてきた役とのあまりのギャップに関してです。特に美山加恋ちゃんと福田麻由子ちゃんに関してですが、思い出す限り幸せな役の子役をしていたことはないと思います。ドラマはやはり大人向け(?)であり「大人の中で翻弄される子ども」という視点で描かれることが大多数です。今回この二人を見て思ったことは「まだまだ小学生なんだよな」という当然な部分と「子役という妙なポジション」に関してです。
現在においてこのドラマに描かれるような小学生風景がどれだけ残っているのかはわかりませんし、それぞれ自分の小学生時代を思い出してみても、このちびまる子ちゃんというコンテキストに合うような小学生生活を送ったという人も稀でしょう。少なからずこれ以上の人間関係や派閥関係、いじめやケンカなども日常的にあったものだと思います。そういった小学生の時代を「ちびまる子ちゃん」というフィルタをとおしてかえりみると、楽しかった小学生時代として思い出すことができるのはこれは重要なことだと思います。ま、これは個人こじんで違う感想となる部分であると思いますが。
どういったドラマに出演しているときの役者さんが好きかはそれぞれの人が決めることですが、彼女達がこのドラマに出演してこのような作品となったことは、私はとてもいいことだったな、と思います。ちびまる子ちゃんという作品がなかったらきっと見ることの出来なかった映像だろうな、思いました。
2006年04月14日
無常という事
「或云、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つづみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれて云、生死無常の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけ給へと申すなり。云々」
これは、一言芳談抄のなかにある文で、読んだ時、いい文章だと心に残ったのであるが、先日、比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細剄な描線を辿る様に心にしみわたった。(後略)モオツァルト・無常という事 小林秀雄 ISBN:4101007047小林秀雄の文学(批評)は、私には到底単純には理解できない部分があります。が、この「無常という事」におけるこの引用から始まる文体、それ自身にはメソッドとしての小林秀雄の方法論を読み解く鍵が多分に隠されていると思っています。
という私は、高校時代の現国でこれを習って以降、その先生が「小林秀雄は苦手だ」といった発言を鵜呑みにして、自分も「苦手だ」というカテゴライズをしてしまったクチです。これは中学生のときに理科の先生が「電気は難しいからな」といってそれ以降、電磁気学が苦手になったのと同じことではあります。どうでもいいことですが:-)
今日も呑みが渋谷であったのですが、電車での帰途、途中で思い出したのがこの小林秀雄の「無常という事」でした。今となってはもうそれが何を意味していたのかを知る術はありませんが、其のときの気持は小林秀雄が「無常という事」を書くきっかけになった気分と同一だろうと思っています。
当時の文学雑誌や同人誌への投稿は、世が世である現代では Blog というツールへかたちをかえて受け継がれているんだな、と妙に今は感心しています。
2006年04月10日
2006年04月02日
仲間受けと一を聞いて十を知るという文化
亀は意外と早く泳ぐ の「監督解説付き映像」で『となりのスタジオでは「ローレライ」の編集をやっていた』という話題があったので、同系統だろうな~と思う「亡国のイージス」と「ローレライ」を借りてきて観てみました。「亡国のイージス」は、こちらでちょっと話題になったときに観ようかな、と思っていたまま放置していた映画です。
両方観てみたのですがどちらも、というか、「亀は意外と早く泳ぐ」を含めてもそうなのですが、結局は「日本という文化圏において作られた映画である以上のものではない」というのが感想です。これは、このエントリのタイトルが示すように「仲間受けと一を聞いて十を知るという文化」の中で成立する映画、という意味です。
私はずっと日本映画が嫌いだったのですが、その根源が何かというのが最近やっと漠然とわかってきた気がしました。それは「説得力の無さ」です。根底に横たわる病巣は、この「仲間受けと一を聞いて十を知るという文化」というものです。結局は映画を作っている層(役者ではなくプロデューサ・マーケット担当層)の、ターゲットを日本人においているという思想、もっというと、それで満足してしまう消費者層自身といってもいいと思います。ですが、それで経済が成り立っているの以上、これは口をはさむ余地はなかなか無いものだと思います。
固い映画が好きだとかそういった意味ではないので、結局は「好き嫌い論」になってしまいます。やはり私は相対として日本の映画は嫌いな方ですね。その理由は、このエントリのタイトルが示すとおりです。
最近、イチローが WBC の期間中に、こんな感じでインタビューに答えていたことがありました。「日本人の選手と話をすると楽ですね。伝えたいことを 3 言えば 10 を理解してくれる。それにくらべてこっち(アメリカ)では大変ですよ。15 言っても 10 も理解されないことがあるんですから」。これはアメリカ文化を批判するというよりも「文化がそれだけ違う」ということをわかりやすく端的に伝えている貴重な発言だと思います。
私も最近は日本映画を好きになる気分は多分にあるので(ハシリとしては初代の劇場版「あぶない刑事」)、私の好きな方向に進んでもらえるとうれしいのですが、こういったものは従来の映画信奉者にとっては許せない部分なのだろうな、と思います。なんだかんだいっても結局は「好き嫌い」なんですよね。感覚という言葉はとても便利で、とても難しい言葉です。
追記 : これ、大分酔ったときに書いたのですが仲間受けじゃなくて内輪受けですね。単語が出てきませんでした。