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2005年11月30日
Firefox 1.5
Firefox 1.5 の正式版がリリースされました。
Firefox Central
http://www.mozilla-japan.org/products/firefox/central.html
Mozilla Firefox 1.5 リリースノート
http://www.mozilla-japan.org/products/firefox/releases/1.5.html
意外と嬉しい新機能に
- ドラッグ&ドロップによるタブの並べ替え

2005年11月29日
catastrophe
人形使いのセリフです。standard のときに書いた、後半のチャネリングの一部です。昨日のエントリの「捨てる技術」って言葉を書いたときにふとこのシーンを思い出しました。より存在する為
より安定を求め・・・・
複雑多様化しつつ
時にはそれを捨てる・・・
脳のネットが複雑化しつつ忘れる機能を持ち
脳以外の細胞が毎日代謝し
生まれ変わりつつ老化するのも
死ぬ時に大量の経験情報を消し去って
遺伝子(ジーン)と模倣子(ミーム)だけを残すのも
周期的に文明が疲弊するのも
皆システムの硬化・・・破局に対する防御機能だ・・・・・・攻殻機動隊 1巻 ISBN:406313248X p338
ここでは意志をもった「変化」や「多様性」に関する会話によってシーンが構成されていますが、同じ「変わる」ということにおいてもいろいろな見せ方があり、劇場版パトレイバーにおいては「傍観者としての変化」を観ることができます。
最近(2005年11月5日)、NHKスペシャルで 立花隆 最前線報告 サイボーグ技術が人類を変える という番組の放送がありましたが、これは非常に興味深い内容でした。この番組を見たときに思い出したのが「攻殻機動隊」と「機動戦士ガンダム」です。サイボーグという意味においては当然「攻殻機動隊」なのですが、その延長線上にある「脳の進化」という段階では「逆襲のシャア」のハサウェイのセリフを思い出しました。
人間て、地球だけに住んでいたときは、頭の細胞の半分しか使ってなかったんだろ。それが宇宙に出て、残りの頭の部分を使うようになれば、テレパシーだって予知能力だって高くなるよな。じゃないと、地球とコロニーで暮らしてたら家族だなんて思えなくなっちゃうもん。このNHKスペシャルを観ると、人間の脳はまだまだ進化の過程にあるのだな、と感じることができます。脳の進化が「擬体」や「電脳化」によって行われるか「宇宙に出る」ことによって行われるかは未知数ですが、環境の変化によって引き起こされるということは、確実でしょう。
2005年11月28日
模様替え
長年使ってきたレイアウトがいい加減気に入らなくなってきたため、部屋の模様替えを行いました。昼過ぎからはじめてまだ終わってません…。
![]() | ![]() |
before | after |
「捨てる技術」というのは重要だとは思いますが、私の場合はとりあえず残しておいてしまいますね。これはよくないです。片づけをしている最中に「まだこんなもの残っていたのか…」的に唖然とすること多々がありました。倉庫部屋の片づけをするときには更に一層、そう思うんだろうなと思います。「もったいない」を母国語に持つ民族ではありますが、捨てることに対してポジティブにならなければいけませんね。来週もがんばらねばっ。
2005年11月25日
2005.11.25
[WSJ] Xbox 360、ユーザーがクラッシュを報告
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0511/24/news017.html
Xbox360 の北米版の購入は流石に見送ってます。
マイクロソフトの「Xbox360」、製造コストは小売価格の1.4倍=調査会社
http://news.goo.ne.jp/news/reuters/keizai/20051124/JAPAN-194922.html
マイクロソフトは2006年6月末までに、プレミアムおよびベーシック型「Xbox360」を約550万台販売することを目指している。とのことですので半年後、どれだけ達成できたか楽しみです。私は多分見送ってると思いますね。でも今使っているテレビが壊れた場合などに HDTV を買ってしまっていたら、購入を考えてもいいです。
マイクロソフト、ウイルス駆除ツールで20万以上の「Antinny」を駆除
http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2005/11/21/9934.html
20 万を超える Antinny を駆除し、しかしまだ 17 万台は感染している可能性があるとのこと。
2005年11月23日
リアル(5)
このマンガは井上雄彦さんのライフワークのようになってるんでしょうか。こんなにこころに関して読まされるマンガはありません。掲載されるペースが非常に遅いため、数年を経ているにもかかわらず刊行されている単行本数は 5 巻までで、巻末の予告では 6 巻は 2006 年秋です。
小学生や中学生の頃にはマンガの週刊誌などは毎日読み返し、一週間のうちに何度も何度も繰り返して読んでいましたが、歳を重ねるにつれてマンガなどは一度読んでしまうとなかなか読み返すことがなくなりました。しかしこのリアルは子どもだった頃の一週間のように、一年をおくるマンガになっています。
表紙のキャプチャには久しぶりにスキャナを使いましたが、デジカメで撮るのとは雲泥の差ですねぇ。パラレルポート接続なのでセカンド PC に接続してあるため、なかなか動かすことがないのですが、PC 環境も含めて部屋の模様替えなどをしたいところです。ラック類や机なども一新したい。。
翔ぶが如く(9)
9 巻は西南戦争の中盤です。8 巻のときも書きましたが、やはり兵の動きに関しては興味が湧きません。本文中、興味深かった文章を引用すると
この西南戦争がどのような形で終結を見るのかには興味が湧きます。奇兵隊、振武隊、正義隊、行進隊、干城隊、雷撃隊、常山隊、鵬翼隊、破竹隊の九つの隊が、かつての大隊の代わりをなす最高単位になった。壮士の剣舞を見るような小むずかしくて意味の熾(さか)んな語が撰ばれたのは、逆にいえば戦闘力という実質がうしなわれつつあるために、名称で景気をつけざるをえなくなったのであろう。
(中略)
前記九つの大隊の総指揮は、元陸軍少将桐野利秋がとることになった。後年、薩摩の老人たちが、
「丁丑(ていちゅう)(明治十年)の戦さは、よかれ悪しかれ、桐野どんの戦さじゃった」
といったようなこの事変における一つの本質が、いっそう露になったといえる。
西郷は、相変わらず指揮をとる気配を見せていない。このため、旧大隊長が幕僚になったところで、そこから作戦がうまれるということは、どうやら見込み薄のようだった。軍は、桐野がほぼ握った。この事情の機微は、最初から暴発へ持ちこんだ桐野利秋の一種の責任とりとも見ていいだろう。(p276-277)
また、この巻では宮崎八郎が戦死します。彼は 5 巻において最も華々しく描かれていた人物でした。
この点、かれは詩的気分としては幕末のの志士たちの正統の後継者であったといえなくはない。かつての志士たちの多くは、自分の人生や生命を一篇の詩として昇華することを望んだが、人民を座標においた最初の革命家である宮崎八郎もそうであった。その望みのように、死が弾雨の中の萩原堤でするどくかれをとらえた。下腹部の毛管銃創は、致命傷であった。(p223-224)
そして日本における戦争の慣習に関しても言及があります。
司馬さんは常に第二次世界大戦における日本軍に話を持っていきますね。これも「知ってるつもり?!」の受け売りですが、司馬さんは第二次世界大戦に関する小説は書けなかったそうです。ノモンハン事件に関して資料は集め、いろいろと構想は練っていたという感じで番組は進んだと記憶しています。しかし、どういったことが原因だったかは忘れてしまいましたが「ノモンハンは書けない」という風に番組では説明されていた記憶しています。司馬さんに関する「知ってるつもり?!」の回は久々に観たくなりました。諸道の政府軍の進撃を早からしめた理由のひとつは、各地で降伏した薩軍の小部隊が、降伏するとともに政府軍の道案内をつとめ、薩軍の配置などを教えたからであった。べつに政府軍が強制したわけでなく、
「降伏したからには、官軍として働きたい」
と、かれらが積極的に望んだからであり、その口上はさらに情緒的で「万死を冒して前罪を償いたい」というものであり、一種、奇妙というほかない。
このことは日本古来の合戦の慣習であったであろう。降伏部隊は鉾を逆にして敵軍の一翼になるというものであり、駒を奪ればその駒を使うという日本将棋のルールに酷似している。ついでながらこの慣習はその後の明治陸軍の弱点として意識されつづけ、日露戦争のときも捕虜になった日本兵は日本軍の配置を簡単にロシア軍に教えた。(中略)この体験が、昭和以後、日本陸軍が、捕虜になることを極度にいやしめる教育をするもとになったといっていい。(p319)
さて、残すは 10 巻のみとなりましたが、まとめ方を興味深く読むことにします。注目して読もうと思っていた「大久保と西郷の決別」に関しては、既に大体は感じは掴めています。残りは最後、かれらの心情をどのように司馬さんが小説に仕上げたか─。
2005年11月17日
喧伝と喧騒のはざま
最近よく聞く(読む)単語の一つに web2.0 というのがあります。この辺に関してはあまり興味がなくてまったくチェックはしていませんが、多分に FUD(Fear, Uncertainty, Doubt) の延長として捉えています。これは特に日本人に対して蔓延しやすい概念だと思います。国民性として「熱しやすく冷めやすい」を地で行く民族だからです。
「自分はわけがわからないが世間が騒いでいるからそれに乗ろう」的な考えを誘発させるモノです。ちょっと前のわかりやすい例で言えば「iMode」ですね。「インターネット」と「携帯電話」という、当時国民一般に対してまだあまり浸透しているとは言えなかったモノを、さも喧伝するようかのようにして普及させたモノです。インターネットに乗り遅れていた人達は巻き返しを図ろうと、こぞって「iMode」に殺到しました。これは明らかに、現状認識に対して焦りがある人びとに対して効果を発揮しました。ネーミングセンスが光る戦略的な勝利です。
もっと卑近な例としては「郵政解散」をもって選挙に大勝した自民党も同様です。そのちょっと前には「年金制度改悪」をして政権の危機が囁かれていた時局を、「郵政」という偶像をもって巻き返しました。これもうまく世間の喧騒を巻き起こし、「郵政といえば小泉」的な安易な方程式のイメージを持って歴史的な大勝を達成しました。
もちろんこれには、先にあげた日本の国民性が重要な要因となっています。「勝てば官軍」という歴史を延々と繰り返してきたこの国は、平成の世に至って「勝ち組」「負け組」という二元論をもって「平家にあらずば人にあらず」を再現しているかのようです。
結局のところこの国の国民性は、今後数千年の時間を経てもたいしては変わらないのでしょう。これには多分に「日本語」という固有の言葉や諺に、その性格が込められているかのようにも思います。日本語を廃して他の言語を母国語とした瞬間、日本的な性格も一変するかと思われます。言語とは、その国を性格付ける血液のようなものかもしれません(←この考え方自体、ABO 型の血液型分類で育った「日本人」の陥りやすい結論とも言えるとは思いますが)。
追記:
FUD に言及しているのは、わかりやすい例としてかつての "Push", "Pull" 論争を思い出しているからです。当時の "Push", "Pull" 論争と Marimba 社はその後、どうなったでしょうか。大多数の素人に対してセンセーショナルになる概念を持ち出して話題を作り、その人気を背景に実質を伴うべく行動する。これは資本主義の常道とも言えないことはないかもしれませんけどね。。。
2005年11月16日
CATALYST 5.11
11.14 付けで RADEON 系の新しいドライバがリリースされました。
https://support.ati.com/ics/support/default.asp?deptID=894&task=knowledge&folderID=27
CATALYST 5.11 Modified: 11/14/2005
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