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2005年10月23日
Thin PS2
北米版の PS2 をやっと入手しました。セロファンも張ったままです。
しかし、ソフトがまだ届かずでおあずけ状態です。とても悲しい…。海外通販をする場合にはちょっとお金がかかってもトラッキングが可能な Shipping Method を選択すべきですね。現在の品物の状況(どこまで届いているのか)がわからないのは精神衛生上よくないです。久々の海外通販で全くこのことは頭から離れていました。
今となっては後の祭りなので次回に生かしたいと思います。さあ、遅くともあと一週間もすれば届くと思うのでその他の予定が入らないように準備は万端にしておこう。しかし、初代 PS2 を買ったときにはまさか北米版を買うとは予想もしていなかったです。しかも次世代機直前でっ。
2005年10月21日
ForceWare 81.85
10.20 付けで GeForce 系の新しいドライバがリリースされました。
http://www.nvidia.com/object/winxp_2k_81.85.html
ForceWare 81.85 Release Date: October 20, 2005
リリースノートはこちら
2005年10月20日
FF7AC
FINAL FANTASY VII ADVENT CHILDREN を見る機会があって鑑賞しました。感想としては、意外とがんばってるなー、というところです(ちょっと冷めてますね…)。というのも 私の苦手な SQUARE くささが健在で(これがないと SQUARE っぽくないという人もいると思いますが、どうも苦手です…)、あとやはり視覚的な効果がゲームと切り離せてないな、と感じたりする部分がありました。
また照明効果に関しては、どういった狙いだったのかはよくわかりませんが(暗澹たる曇天なる世界を狙っていたからかもしれませんが)グローバルイルミネーションによる処理がほとんどで、直接光の効果はあまり使われていなかったように思います。このエントリ にも書いているように私は梅雨の日本のような間接光によって照らされた世界が嫌いで、直接光による強烈なコントラストのある世界が好きです。その点では一番よかったのはエンディングになります。
エンディングでは FF7AC のイメージソングである氷室京介の CALLING が流れます。これには一番驚かされました。まさかヒムロックとはと。この一点だけで FF7AC の印象の悪かった部分を全て帳消しにしてもいい気分になりました。
その他気になった点は、格闘シーンにおけるモーションブラーの弱さ(無さ?)です。バイク上での格闘ではそれなりに使われているように感じたのですが、バイクを用いない肉弾戦(?)での格闘ではほとんど fixed な(用語が適当でないですね…)モデルの動きしか感じられませんでした。動きが速いカットでモーションブラーの効果がないことで、よりゲームっぽい映像として感じてしまったのだと思います。
2005年10月19日
齊彬乃夢
ぐはぁ、、、やられました。
薩摩切子復活記念に1本20万円超の本格焼酎
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051019-00000010-maip-soci
◇鹿児島県の焼酎会社「濱田酒造」とガラス会社「薩摩ガラス工芸」が、薩摩切子復活20周年などを記念した1本20万円超の本格焼酎「齊彬(なりあきら)乃夢」を発売した。
こんなエントリを書く私としては、もう名前で買ってしまいそうになります。しかし 24 万は高すぎ、無理です。普通のボトルが 500ml ちょこ付きで約 3 万らしいですが、これでも高すぎ、無理です。贅沢は敵です。(c)音無響子
practice
煮え切らない友人の言動を見ていて、逆に粋な生き方をした江戸っ子のことを思い出しました。名は十返舎一九(じっぺんしゃいっく 1765~1831)。江戸後期の戯作家で滑稽本を得意とし、代表作として「東海道中膝栗毛」などがあります。彼はとても洒落者であり、有名な逸話としては、死んだあとも人々を驚かせようと自分の体(棺桶?)に花火を仕込んでおき、火葬されたときに花火が打ちあがるようにしておいたそうです。打ちあがった、というのは尾ひれの部類に入るとは思いますが、気分としては辞世の句の
この世をばどりゃお暇(いとま)に線香の煙とともに灰(はい)左様ならにあらわれています。
このエントリに十返舎一九はあまり意味がないのですが(笑)、この十返舎一九を電子辞書で調べようとしたとき、サーチ中に「十篇読むより一遍写せ」ということわざを見つけました。意味は「何度も読むより、一回でも書き写したほうが、内容もよく理解でき、記憶も確かなものになるとういうこと。」で、丁度前回のエントリを思い出します。理系の勉強でも理論や公式を何回も見るだけではあまり意味はなく、実際に計算してみることにより理解を深めることができます。この辺はプログラムやスポーツでも一緒で「習うより慣れよ」という実践、行動が重要なウェイトを占めるものだと思います。
さて、ここでも評論ばかりせずに実践をしよう。。
2005年10月17日
記憶めぐり
ときどき文章を読んでいて綺麗だなと思ったり既視感を感じたり同じようなことを考えている人たちがいるんだなと思ったりすることがあります。自分もこのことに関して既に文章にしていればわかりやすいのですが、inside out の 長い文章を書くということ を読んでいたときにふとこのようなことを思い出しました。
このエントリにはいろんなモチーフが隠れており、それは観測的であったり構成的であったり微視的であったり巨視的であったり文学的であったり数理的であったり客観的であったり主体的であったりと、受け止め方はその文章を読む人それぞれに対して異なった色彩を放つものだと思います。
それらの歪みや矛盾というのは、もしかしたら、対象物の歪みや矛盾かも知れませんし、あるいは、逆に自分の中の歪みや矛盾なのかもしれません。あるいは、対象物と自分との間にある歪みや矛盾なのかもしれません。それらの歪み・矛盾・食い違いなどを何とかつなぎ合わせて一つのものにする、というのが長い文章を書くということなのかもしれない、と思うことがあります。だから、長い・広い文章を書くということは、そんなたくさんの歪み・矛盾と向かい合わざるをえない辛い作業なんだろうな、と想像したりします。ただ、書かなければ「その書く辛さ」に向かう羽目にならないのかもしれませんが、書かなければ「書こうとして始めて気づくこと」や「書き終えることでようやく発見すること」を見ることもできないもかもしれない、とも思います。
この引用は部分的ですが、全体を通して感じた印象としては ∫Integral Interval∫ の 自然と自然科学と数学1 を思い出させられました。
∫Integral Interval∫ : 5月8日 自然と自然科学と数学1
自然とは、つかみどころのない霧のようであり、視界に入りきれないほど大きな岩石のようでもある。見ようとするとその足元を残して後は隠れてしまう。つかもうとすると小さなかけらを残して後は消えてしまう。科学という名のライトは以前よりも自然のずっと多くの部分を照らし出すことができるけれども、それでも自然のほんの一部のことしか分からない。また自然の他の部分は、絵画だったり音楽だったり宗教だったりで少しずつ理解できる。それでもやはり全体を照らし出すことはできないだろう。
これは非常に印象に残った文章で、多分当時 CONTACT を見ていた影響もあるのだと思います。Google 先生をとおして自分の記憶の中のセリフ(the universe is a pretty big place)を検索してみると、CONTACT の中で印象に残っているフレーズは多分以下のサイトのこの記述で間違いはなかったと思います。
LS's Book of Quotes : http://www.alexandre.leroux.net/quotes/quotes_e.html#contact-anchor
The most important thing is that you all keep searching for your own answers. I'll tell you one thing about the universe thought, the universe is a pretty big place, it's bigger than anything anyone has ever dreamed of before, so, if it's just us, seems like an awful waste of space, right?
こうやって繰り返していくうちに更にいろいろな記憶がよみがえり、また取りとめもなく引用の繰り返しを行ってしまいそうになります。「長い文章を書くということ」によってはじめられた記憶めぐりの行程は、この文章に対する自分の記憶に対して「歪みや矛盾」ではないにしても、それに近いものを探そうとして「書こうとしてはじめて気づくこと(思い出すこと)」や、果たして「このエントリを書くことによって発見したこと」があったかどうかは、多分また時間がたってこのことも記憶になったときに思い起こされることかもしれません。
2005年10月16日
翔ぶが如く(7)
第7巻はついには「会戦前夜」といった感があります。一度動き出した気運というものは、ひと一人の力ではどうすることもできないということをまざまざと見せ付けられる気分でした。現実はロジックどおりには動かずに人が動かします。しかしその人を動かすのは、熟慮よりも多分に気分の高揚である場合があります。この会戦前夜もそういった気分の中で情勢が形成されていきました。「覆水盆に帰らず」と言ってしまえば簡単ですが、あるかもしれないと仮定しつつも無いと思っていた現実が実際に起こったとき、薩摩 - 私学校が選択した、せざるを得なかったのが「決起」という道でした。
この決起に至る決定的なトリガは、私学校生徒らによる陸軍火薬局からの武器強奪に端を発します。この報に触れた桐野、篠原らの気分が以下に描かれています。
桐野がぬっと入ってくるなり、篠原国幹にいった言葉を、田中才助は記憶しているのである。
「お前さァが、弾薬を取らしゃったか」
これに対し、篠原が意外そうに、
「いやっ、俺は、お前さァのさせやったかと思うちょった」
たがいに事件はその差金かと思っていたのである。が、そうでないことがわかったとき、田中才助の記憶では、桐野は、
「もうこうなれば仕方がない」
と、長大息した。決起以外にない。決起には名目が要る。「刺客」という風説をもつ帰郷組をとらえて泥を吐かせ、それをもって政府の非を鳴らす、ということであったか。要するにすべてを動かしているのは、この異常な気分であった。(p253-p254)
また西郷は私学校本局における大評定(寄合)において、最終的には
自分は、何もいうことはない。一同がその気であればそれでよいのである。自分はこの体を差しあげますから、あとはよいようにして下され。(p282)ということをいいます。
大久保利通と西郷隆盛という両雄が、どこでボタンを掛け違えてしまったか。結果的に衝突しなければならなくなる二人ですが、
西郷と大久保とは、政敵として袂をわかったとはいえ、年少のころから同志の契りをむすび、水火をともにくぐってきて、互いに気心も志操も知り抜いていると双方が思い、かつ双方の人格に付いての尊敬心を、どちらも失っていない。(p255)とまで形容される二人です。
ふと思い出したことに「銀河英雄伝説」のロイエンタールの反乱があります。細かな情景としては異なりますが「自分の意志とは別の力によって揺り動かされる人生」という観点において類似性を見出してしまいます。「銀河英雄伝説」を読んだのはもう 10 年程前だと思うので詳細は忘れてしまっていますが、また読んでみたい気分になりました。
CATALYST 5.10
10.12 付けで RADEON 系の新しいドライバがリリースされました。
https://support.ati.com/ics/support/default.asp?deptID=894&task=knowledge&folderID=27
CATALYST 5.10 Modified: 10/12/2005
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